大切な人の幸せのために専門職はなにができるか。

今年もあと少し。今年もいろいろあったな、と感慨にも浸っていられない。年末にかけて、仕事が増えてきた。ということもあって、大掃除もせずに、年末の三重での休暇に突入。息子たちはGW、夏そして冬の休暇を楽しみにしているようで、寒空しかも初雪の中、はしゃいでいる。

年末しっかり息子たちの相手をしたいところだが、名古屋・三重でのお仕事も盛りだくさん。今回も社会的養護、児童福祉関係のお仕事中心。年末にかけて、事件もいろいろ報道される中、施設養護の現状を改めて問い直す必要性を感じている。来年以降また厳罰化の圧力が強まるのではないかとさえ思っている。

重大事件もある一方で、悪ふざけと犯罪という現実が結びついていないと思われる事例も。こうした事例に、果たして厳罰化は効果があるとは考えられない。犯罪に至るまでの過程は様々あり、障壁を高くすることは必要なのだが、その方法は多様なものがあって然るべきだ。しかし厳罰化の主張は、大人の側の不満を表したものでしかなくなっている。

また、施設退所後の対応も十分とは言えない。家族、コミュニティ、学校など様々なアプローチが必要だが、その後の支援は自立や自己責任などという大人の事情が透ける言葉で、好き勝手に回収されているのが現状だ。

少年犯罪をめぐる議論は尽きないが、ただ厳罰化すれば良いという議論からは脱却しなくてはならない。

施設での指導のあり方も大きな課題だ。福岡学園をはじめとした児童自立支援施設や千葉の障害者施設での不適切な事案、虐待事案に接すると指導の難しさばかりか強調されてしまう。逆の立場に立った時、あるいは利用者にとってとても大切な人の立場に立った時、指導のあり方、関係構築のあり方は理解されるかどうか、踏まえる必要性がある。

なぜか。その疑問はまだ関係者には共有されていない。施設養護とは、決して特別なものではない。社会から隔絶されたものではない。その点が理解されることが大事なことなのだろう。

ここ1ヶ月で改めて感じたこと、専門職のあり方、来年以降は認定社会福祉士も含めて考えなくてはならないだろう。ちょいとでか過ぎか、課題としては。

社会的養護、児童虐待、少年犯罪・・・

いつもブログをご覧いただきありがとうございます。
なかなか記事を書く時間がなく、ご無沙汰させて頂いておりました。

12月、卒論指導、来期のシラバス作成等、学務に流されつつ、関西出張をちょこちょここなし、様々な現場に入っています。社会的養護の現場、児童虐待に向き合う現場、少年犯罪をめぐる現場、様々な現場に入る中で、笑顔でみんな新年を迎えられるようにしたいと思いつつ、重たい現実を突き付けられ、右往左往しています。

何だかな~ってかんじですが、役割を果たすまでです。
取り急ぎ、ご報告まで。

秋の空に祈りつつ

最近、学外での仕事が立て込んでおり、なかなかメールの返信ができておりません。もうしばばらくお待ちください。

秋、スポーツの秋。たしかに気候的にはそんな感じの日が続いています。秋の空は変わりやすいのですが、今シーズンはちょっと様子が変です。
伊豆大島の台風被害かなりの深刻のようです。大島に戻っていた知人も難を逃れたようですが、ご親戚の方が行方不明らしく憔悴しきっていました。スポーツシーズンという事もあり、なかなか予定が空かないので現地へ行ってお手伝いする時間が取れないのが心苦しいばかりです。さらには、27号も迫ってきており、被害が増えないことを祈るばかりです。

弱くてもいい、泣き言だって言ってもいい。 ~そんな日が来ることを願って~

秋が深まったなと思っていたら、夏がまだまだオレの出番だぜ!と言わんばかりの状況に、もう10月だから出番なし!と誰か言ってほしくなるレベルのお天気が続いている。
そんな中、保育園では秋らしくお芋ほりをし、今年は豊作だったのかお持ち帰りの量も多くて、これからどうしようかなと思案している。かたや小学校組は運動会、遠足等イベントが結構盛りだくさん。毎日元気に通っていて、その姿を見ているだけでほっとする。

さて後期授業も本格化。序盤戦だが相変わらずの自転車操業。雑務がうなぎのぼりで増加する。そしてこの時期は申請書類作成に時間を取られる。あと履歴書の作成とか。授業の準備は、子どもたちが寝静まってから猛烈な勢いでするので、睡眠時間は削られる一方だ。この時期は子どもたちもイベント事が多く、お弁当なんてタスクが発生した日にはもう徹夜。仕事も家庭も自転車操業。夏のつかの間の休日が懐かしい。

ゼミも始まり、今日から基礎ゼミでは家族の多様化をテーマにいろいろ議論する場をつくりたいと考えている。

そんな中、タイミングが超ラッキー。今日のクローズアップ現代「父子家庭 急増の陰で~虐待死事件の波紋~」を視聴。東京・江東区の4人の子どもを持つ45歳の無職の父親、いわゆるシングルパパが、5歳の長男を虐待し、死なせてしまった事件。これを手がかりに父子家庭が抱える課題に迫ったものだった。このシングルパパは4年前、勤めていた建設会社が倒産し失職した。1年前に妻と離婚、生活保護も受給していたようだ。

家族の多様化、ライフスタイルの多様化、そうしたことが言われるとき必ず猛烈な非難が浴びせられる。
例えば、父子家庭に小学校高学年、あるいは中学生くらいの男の子がいたとする。朝あるいは前日の夜、父親は息子の分のお弁当と自分の分のお弁当をがんばってつくる。こんなシーン、父子家庭には結構見られる日常だと思うのだが、ひとたび映像化されると意外な反応が返ってくる。弁当くらい自分で(息子が)つくればいいやろ、あるいは弁当なんていらんやろ、買えばいのに、といったような反応だ。

家族の多様化という言葉が、ある時期からかなりの頻度で言われるようになってはいるが、意外に両親がいて健康な子どもがいてみたいな家庭像のみが「正しい」と捉える向きは余り変わっていないのではないだろうか。
ただ、正しいとされてきた家庭像も、最近では不安定な雇用の増加、将来不安の高止まりもあり変更を余儀なくされている部分もある。それは、妻となる女性に企業就労を望む男性の増加だったり、育児休暇をとりたいと願う男性の増加だったり。まだ大きな流れとまではなり得てはいないのだろうが、そうした水面下の動きもある。
ただ、そうした水面下の動きの背景の裏には、やっぱり「正しい」家庭像、あるべき家庭像があって、でも現実そうはいってもねというある種の妥協の産物として、そういう一見柔軟な考え方が出てきているのではないだろうか。
「正しい」家庭像からちょっとでも外れると、様々な圧力がかかる。前述のお弁当の件、これだってお弁当を誰がつくろうが別にどうでもいいことなのだけど、こうあるべきだという主張をぶつける。
その根っこには、父子家庭でも、母子家庭でも頑張っているのだから、泣き言を言うな、甘えを言うな、あるいはあきらめろ、我慢しろというような類の主張。とりわけ、両親が揃っていた方が子どもにとっていいに決まっているという言葉。この言葉ほど、父子家庭、母子家庭を追い詰める言葉はない。

子どもに母親がいたら助かるだろうなと思うこともあるけど、現実は戻ってこない。現状がきつくても昔には戻れないのは、誰よりも、息子たちや父親である自分はわかっている。にも拘らず、現実はそうしたあるべき家庭像を投げつけられ、辛い思い、悔しい思いをする。泣き言言うなと非難される一方で、追い詰められる。そりゃ泣き言も言いたくなるし、ストレスもたまるってもんだ。
人と人が出会い、様々な関わりあい、時とし、ぶつかりあい、時には砕けることもあるだろう。関係ができたり、壊れたりなんてどこにでも、そしていつでも起こり得るのに、それに正しさや順序を求めることにどれほどの意味があるのだろうか。家族の形が変わることを非難して、何かよくなることがあるのだろうか。

もう1つ視聴して気になったというか、考えさせられたこと。困っている時に困っていると意思表示することの大切さ。困っている時こそ、自分が強くなければ、自分さえ我慢すればということで、孤立しがちになる。どうしても抱えきれない困っていることって、生きている中では大なり小なりあるのではないか。
今の仕組み、体制で意思表示、サインを受け取り対応できる体制なのかどうかは改めてかつ早急に確認し、整備すべき点は整備しなくてはいけない。できれば地域単位で、コミュニティを作れればそうしたサインを見つけやすくなるのかもしれない。

泣き言だって言っていいじゃん。弱くてもいいじゃん。弱さを認めることは勇気がいる。助けを求めることだってしんどいことだ。だからこそ、弱くてもいい、辛いときだってある。でもつながることを恐れないでほしい。

弱くてもいい、泣き言だって言ってもいい。 〜そんな日が来ることを願って〜

秋が深まったなと思っていたら、夏がまだまだオレの出番だぜ!と言わんばかりの状況に、もう10月だから出番なし!と誰か言ってほしくなるレベルのお天気が続いている。
そんな中、保育園では秋らしくお芋ほりをし、今年は豊作だったのかお持ち帰りの量も多くて、これからどうしようかなと思案している。かたや小学校組は運動会、遠足等イベントが結構盛りだくさん。毎日元気に通っていて、その姿を見ているだけでほっとする。

さて後期授業も本格化。序盤戦だが相変わらずの自転車操業。雑務がうなぎのぼりで増加する。そしてこの時期は申請書類作成に時間を取られる。あと履歴書の作成とか。授業の準備は、子どもたちが寝静まってから猛烈な勢いでするので、睡眠時間は削られる一方だ。この時期は子どもたちもイベント事が多く、お弁当なんてタスクが発生した日にはもう徹夜。仕事も家庭も自転車操業。夏のつかの間の休日が懐かしい。

ゼミも始まり、今日から基礎ゼミでは家族の多様化をテーマにいろいろ議論する場をつくりたいと考えている。

そんな中、タイミングが超ラッキー。今日のクローズアップ現代「父子家庭 急増の陰で〜虐待死事件の波紋〜」を視聴。東京・江東区の4人の子どもを持つ45歳の無職の父親、いわゆるシングルパパが、5歳の長男を虐待し、死なせてしまった事件。これを手がかりに父子家庭が抱える課題に迫ったものだった。このシングルパパは4年前、勤めていた建設会社が倒産し失職した。1年前に妻と離婚、生活保護も受給していたようだ。

家族の多様化、ライフスタイルの多様化、そうしたことが言われるとき必ず猛烈な非難が浴びせられる。
例えば、父子家庭に小学校高学年、あるいは中学生くらいの男の子がいたとする。朝あるいは前日の夜、父親は息子の分のお弁当と自分の分のお弁当をがんばってつくる。こんなシーン、父子家庭には結構見られる日常だと思うのだが、ひとたび映像化されると意外な反応が返ってくる。弁当くらい自分で(息子が)つくればいいやろ、あるいは弁当なんていらんやろ、買えばいのに、といったような反応だ。

家族の多様化という言葉が、ある時期からかなりの頻度で言われるようになってはいるが、意外に両親がいて健康な子どもがいてみたいな家庭像のみが「正しい」と捉える向きは余り変わっていないのではないだろうか。
ただ、正しいとされてきた家庭像も、最近では不安定な雇用の増加、将来不安の高止まりもあり変更を余儀なくされている部分もある。それは、妻となる女性に企業就労を望む男性の増加だったり、育児休暇をとりたいと願う男性の増加だったり。まだ大きな流れとまではなり得てはいないのだろうが、そうした水面下の動きもある。
ただ、そうした水面下の動きの背景の裏には、やっぱり「正しい」家庭像、あるべき家庭像があって、でも現実そうはいってもねというある種の妥協の産物として、そういう一見柔軟な考え方が出てきているのではないだろうか。
「正しい」家庭像からちょっとでも外れると、様々な圧力がかかる。前述のお弁当の件、これだってお弁当を誰がつくろうが別にどうでもいいことなのだけど、こうあるべきだという主張をぶつける。
その根っこには、父子家庭でも、母子家庭でも頑張っているのだから、泣き言を言うな、甘えを言うな、あるいはあきらめろ、我慢しろというような類の主張。とりわけ、両親が揃っていた方が子どもにとっていいに決まっているという言葉。この言葉ほど、父子家庭、母子家庭を追い詰める言葉はない。

子どもに母親がいたら助かるだろうなと思うこともあるけど、現実は戻ってこない。現状がきつくても昔には戻れないのは、誰よりも、息子たちや父親である自分はわかっている。にも拘らず、現実はそうしたあるべき家庭像を投げつけられ、辛い思い、悔しい思いをする。泣き言言うなと非難される一方で、追い詰められる。そりゃ泣き言も言いたくなるし、ストレスもたまるってもんだ。
人と人が出会い、様々な関わりあい、時とし、ぶつかりあい、時には砕けることもあるだろう。関係ができたり、壊れたりなんてどこにでも、そしていつでも起こり得るのに、それに正しさや順序を求めることにどれほどの意味があるのだろうか。家族の形が変わることを非難して、何かよくなることがあるのだろうか。

もう1つ視聴して気になったというか、考えさせられたこと。困っている時に困っていると意思表示することの大切さ。困っている時こそ、自分が強くなければ、自分さえ我慢すればということで、孤立しがちになる。どうしても抱えきれない困っていることって、生きている中では大なり小なりあるのではないか。
今の仕組み、体制で意思表示、サインを受け取り対応できる体制なのかどうかは改めてかつ早急に確認し、整備すべき点は整備しなくてはいけない。できれば地域単位で、コミュニティを作れればそうしたサインを見つけやすくなるのかもしれない。

泣き言だって言っていいじゃん。弱くてもいいじゃん。弱さを認めることは勇気がいる。助けを求めることだってしんどいことだ。だからこそ、弱くてもいい、辛いときだってある。でもつながることを恐れないでほしい。

ゼミ生・OBのみなさま

研究室の新しいsiteを作成いたしました。

まだ、コンテンツが少ない状態ですが少しずつ増やしていきますのでご活用いただけますようお願い致します。尚、googlesiteページは書庫として活用します。

よろしくお願い致します。

とあるシングルパパのグチ

夏の暑い時期は仕事したくないなと思っていたら、もう9月。今朝、子どもと一緒に保育園へ向かういわゆる子連れ通勤の道中、風が少し涼しく感じられるようにった。もう秋の足音が小さいけれど聞こえるようになってきたと言えるのもかもしれない。と思ったら、竜巻や豪雨があったりで、夏と秋のせめぎあいは当分の間続きそうだ。

そんなせめぎあいを暮らしの中で感じている近頃、子育ても家事もいっぱいいっぱいな状況なのだけど、正直何が原因なのかよくわからない。息子たちとの時間は大切にしたいし、家事だって、息子や弟たちの日々のコミュニケーションの一環だから、決して苦ではない。仕事が原因かといえば、そうではないだろう。この時期は、社会福祉士の実習指導の一環で巡回指導などもあり、学生さんと一番近い距離で、成長を見れるし、共に考え、格闘する時期だ。正直、学生さんとじっくり話せるタイミングは限られる中では、貴重な機会と言えるかもしれない。研究も日々いろんな方に支えて頂きながら、格闘する日々を続けている。
よく考えると、子育てと家事、そして仕事のすきま時間があまりなくなっているのかな、あるいは充実していないのかなとも思う。毎日毎日の積み重ねの中で、様々なイベント、タスクが続くと、疲労がたまる。自分ではがんばってないつもりでも、紡がれる日々の中でリセットしたり、リトリートしないと、擦り減ってしまう。

妻が生きていれば、と思うこともないわけではない。いろいろ子育てや互いの仕事や趣味、興味関心などについてざっくばらんに共有できる時間があった。しかし、今はいない。相手の話を聞きながら、思慮を巡らせたり、会話を楽しんだりする時間がいかにかけがえのないものであったか、何気ない日常を共に歩んでいくことができなくなったという現実は変えようがないのだなと、改めて思わざるにはいられない。

子育ても家事もたまに投げ出したくなる。抱え込むのはしんどいが、逃げ出すのも辛い。どうしようもない状況の中でどうすればよいのか。気分転換する時間も、ひとりになる時間もない。ちょっと休んで、ぼーっとするだけでいい。でも世の中そんなに甘くない。ごはんつくらなければ、子どもたちは困ってしまう。洗濯しなければ、弟たちも困惑してしまう。私が彼らの前から消えてしまうと、家族が悲しい思いをするだろう。そんな思いをさせるために、自分は生きているんじゃない。でも今が辛い。追い込まれたときに脱出する時間、居場所があればなと切に願う。