児童自立支援施設と社会的養護と当事者と

児童自立支援施設の未来

そろそろ保育実習も始まり、どんな形で学生さんが成長していくのか楽しみな時期になった。アタフタすることもあるだろうけど、子どもとの時間、先輩保育士の先生方との時間を大切に、前を向いて取り組んでほしいなと願っている。

先週は、かなりひさしぶりになったが、タイガーマスク基金さんの勉強会に参加させていただいた。児童自立支援施設がテーマの勉強会だったので、いろんな仕事を半ば強引に切り上げて参加したが、参加してよかったなと感じた。児童自立支援施設をテーマにしたこうした勉強会は私が知る限り、かなり貴重。
また、先日とある里親の集まりにお招きいただき、お話をさせていただく機会を得た。里親と里子の関係をどう築いていったら良いのかというテーマで、ライフストーリーをもとに展開した。いつも通りたどたどしくなってしまったが、30名ほどの参加者の方が熱心に聞いてくださった。

児童自立支援施設ってなんだろうって話はどこにいっても聞かれる。知名度はまだまだだ。ひょっとしたら、教護院って名称の方がまだ知られているのかもしれない。里親さんの集まりレベルになるとなんとなく、施設のイメージはあるみたいだけど、実際何が行われているかはよくわからないというのが実情のようだ。
児童自立支援施設に入所していた友人、知人に聞いても、入所前に知っていたのは、児童養護施設経由で入所した人でさえ、怖い施設、厳しい施設というイメージで具体的に何をしているところかは知らない人がほとんど。普通に暮らしていれば、縁遠い施設なのだけど、そんな施設で時間を過ごした人が少なからずいるということ、そして社会的養護の下で暮らす子どもたちのために児童自立支援施設がどんな存在であるべきなのか、少しだけ書き溜めておきたい。

平成25年の児童養護施設入所児童等調査によれば、児童自立支援施設の入所者数は1670名、平均年齢は14.1歳 で平均入所年数はおよそ1年だ。全国に国立含め58箇所あるが、定員からは大きく割り込んでいる。施設の特性上、入所期間は児童養護施設に比するとかなり短い。(児童養護施設は平均4.9年)

学校教育はも最近では行われる施設が増えてはいるが、日中丸々、学校教育ということはない、たいてい午前は学校教育、午後は施設内での農作業など様々な指導等に費やすことになる。指導の内容は施設によっても異なるが、基本的に児童養護施設より指導、ルール、日課は厳格で、ルール違反等には様々な強制的な指導が伴う。

自分の場合は、乳児院→肢体不自由児施設→児童養護施設→肢体不自由児施設→里親→肢体不自由児施設→里親→児童自立支援施設→里親というちょっと複雑な入所歴だけど、児童自立支援施設の入所時には一応子どもの同意を取り付ける。(児童養護施設や里親の措置についても同意を得るが、肢体不自由児施設はその当時は同意はなかった気がする。)ただし、前向きな同意があるケースは稀で、止むを得ず、半ば強引に同意を取り付ける。退所についてもいきなり言われたり、あるいは施設で対応は困難ということで退所ということになったりするケースがある。

個人的に児童自立支援施設で暮らしていた時間は黒歴史でしかない。ほんとにつまらなかったし、居丈高な職員の意味不明な言動に付き合わされ、施設内では暴行や凄惨ないじめもあったし、何よりも農作業や部活そして日課・ルールがとても嫌いだった。
まず職員。いつも何か不満そうに自分たちに接するのか、見ていてとても不快だった。中には来たくて、この施設に来たわけではないと言ってのける職員もいた。(後日この職員は仲間たちから猛烈な怒りを浴びてやめた。)どうして大人はこんなにつまらないのかと疑問に思う日々だった。そんな疑問のある自分にとって、タイガーマスク基金の勉強会で講師のお2人が話されていたことにはプチパニックだった。
施設内での暴行、立てこもり、いじめなんて日常。職員への暴言、暴行もあったし、入所する子どもたち同士の暴行もひどかった。職員が子どもを指導のためによく観察するように、子どもだって職員の言動をよく観察している。行き違いがひどくなると子どもたちが集団で部屋の中に立てこもる事件もあった。立てこもるって楽しいなと味をしめて頻発した日々もあって、当時はとても刺激的だった。勉強会でも触れられていたが、最近では施設内での性的暴行への対処が、課題になっている。入所前に性的暴行の加害者だったり被害者だったりと加害者被害者が同居する極めて異質な空間の中でいかに対応するか、児童自立支援施設の重要課題だ。
児童自立支援施設で特徴的なのは様々な指導だ。野球などの部活動や農作業、陶芸などなど。これ基本選択肢はなくて強制だった。集団処遇の極みみたいなもので、施設の存在意義そのものだとされるが、子どもの特性や興味関心を全く考慮しない集団処遇だった。ルール違反時に過剰な作業量を課して、仲間が体調不良になりその後退所するケースもあったし、作業=きつい、うざいというイメージしかなくなってしまった。多くの施設で農作業を指導に取り入れているが、数年前に福岡学園であった特別指導のような問題もあり、指導のあり方、集団処遇の内容については議論されてしかるべきではないだろうか。ルールについては以前数度にわたり触れているので、割愛する。

ところで、児童自立支援施設で暮らした子どもたち自身のネットワークは余りない。それは退所するのが突然で、尚且つ入所期間も短いなど、施設内での仲間意識は他の施設に比すると育まれにくいなどの理由があるのかなとも考えるが、やっぱり余りいい思いを抱いていない入所者がすくなからず存在するのも理由としては大きいのかなと考える。職員が主に、非行問題などの雑誌等で自らの実践について語ることはあっても、当事者自身が語る機会は余りないように思う。

一方で年に1度は児童自立支援施設の不適切な指導や施設内での事件がメディアを賑わせることがある。そうした事案を耳にするたびに、どうにかならないのかと思う。施設に対しいい思いは持っていないのは事実だけれども、とはいえ、ある意味で児童自立支援施設は最後の砦のような存在で、社会的養護のキープレーヤーになりうる存在だとも考えている。

そう考えるに至ったのは肢体不自由児施設の職員さんからもらった言葉が大きかった。施設で受けた性的暴行やいじめ、職員による体罰などを思い切って話したところ、その職員さんは、できる限りの対応を取ってくれた。県への報告や里親との調整等々。そんななかで、「肢体不自由児の施設ではなかなか退所後のケアはできない。でも困っている時に支えになれる存在であるべきなんだよね職員は。」と言ってくれた。どうしても職員というと指導をする職員というイメージになりがちだけど、実際は施設に入って、出た後に支えになれる存在があれば、ちょっとは頼れるかなと。
ただ、自分は施設への負のイメージがあるので、なかなか頼れない人たちの集まりをつくって、施設とは違う止まり木をつくりたいと施設を出た仲間とともに組織をつくって活動している。やっぱり施設に頼れない、近寄りたくないって人もいるし、そんな仲間の支えになれればと思って地道にやっている。児童養護施設に比べると存在感が薄い児童自立支援施設。少しずつ当事者の様々な声をあげて、施設の現状や社会的養護への声を社会に届けられたらいいなと思う。

1・17

今年はセンター試験の業務に重なったため、思いを巡らす時間はなかった。小学校だった当時の記憶と、その後の日々の中で知った事実に向き合う時間。もう21年なのか、まだ21年なのかはわからないけど、過ぎ行く時間の中で無視できない出来事。

あの地震と映像、報道から感じた思いは、自分自身の今の研究につながっている部分がある。何が当時できなかったのか、今何を見つめ、できることを進めなくてはならないのか、細々とではあるけど続けている。


弟とも少し話す時間を持ったが、やはり当時のことは鮮明に覚えていた。震災を直接知らない世代も増える中、未来に何を残すことできるのか、問われ続けている。

「ひとり親を救え!プロジェクト」論争に思うこと

福祉の現場に身を置くものとして、思うことがある。現場においては、当事者は一様ではないということは口を酸っぱくして言われることである。障害児福祉の現場でもそう。たとえ、同じ障害名であっても、子どもによって、障害がもたらす困難、障壁は様々だ。生育歴が違うし、パーソナリティが全然違う。だからサポートもいろいろコミュニケーションをしつつ、手探りながらやっていく。さらには家庭の状況や必要な支援も異なる。

学校の同級生や後輩に「ガイジ」「シンショー」と言われたり、「家なき子」と言われたり、いろんな言葉を投げつけられてきた。思い返せばひどい言葉のオンパレードだが、そうした言葉を投げつけられるたび、自分は「障害児」「棄児」であるということに対する葛藤、憤り、疑問が湧き上がり、それがアイデンティティーに深く根ざしていったように思う。時間を重ねるにつれ、投げつけられる言葉をブロックするスキルを身につけ、強化していったことで、今はそうした言葉からは距離を置けるようになった。

とはいえ、言葉に対してアンテナを働かせなくなったわけではないし、今も消化できていない言葉だってある。
逆に距離をとることによって、言葉に対する視野が広がるので、見えなかった思惑、言葉の背景などを見つめる機会も増える。それを無防備に見ると、一層自分自身を傷つけてしまうことだってある。自分は「社会からどう思われているのか」ということをある1つの言葉から、感じ取ることだってできる。


児童養護施設児童自立支援施設、少年院などで過ごした人と話す機会もよく持たせて頂く。多くは施設の職員や地域、あるいは同じ施設で過ごした入所者の言葉について話しになる。あのとき、こんなこと言われたんだよね、あれ言われたのがむかついた、うざかったなど、あるいはあの言葉は、嬉しかったなど。年数を重ねても結構覚えているんだよねと、昨晩あった肢体不自由児施設で過ごした経験のある友人が言っていた。たしかに、自分も話し出すと結構覚えていた。


前置きが長くなってしまった。最近ネット上を少し賑わせている、あるいはTVなどでも取り上げられているプロジェクトがある。ひとり親を救え!プロジェクトだ。ざっくりいうと、児童扶養手当の2人目、3人目以降の子どもに対する手当の加算額を増やしてください!!ということを政府にお願いする、というプロジェクト。そのプロジェクトの名称がひとり親を救え!プロジェクトと言っている。政府にお願い(陳情)するといっても多くの人がその活動の主旨に賛同していれば、政府に大きなインパクトを与えることができ、それが法改正等に結びついていくことになる。このプロジェクトが行っている署名活動、私の知り合い、友人も少なからず賛同している。変えたいと思っていることには、とても共感できるし、応援したいなとも思う。


シングルパパの1人としては、ひとり親家庭の所得保障は、子どもの生活安定につながるので賛成だ。2人目の加算が5000円、3人目以降は3000円の加算はいかにも少ないと言わざるを得ない。厚生労働省が出している全国母子世帯等調査(H23年)によれば、シングルママの世帯の平均就労年収はおそよ180万、子どものいる世帯の平均年収およそ3分の1だ。仕事をいくつも掛け持ちしているお父さん、お母さんも少なからずいる。生活保護を使えばいいと思われるかもしれないが、昨今の不正受給をめぐる報道等もあり、心理的ハードルは上がっていると言わざるを得ないし、受給できたとしても様々なトラップがあって、生活が真の意味で安定するかといわれると、疑問符をつけなくてはならない。児童扶養手当の加算がそうした状況を少しでも変え、貧困率の改善、子どもの学びの機会の保障にもつながる。


このPJは、広い意味では子どもも含む家庭への支援だが、主眼は親への支援と言えるだろう。それはPJのタイトルにも表れている。
ここ数日、私はこのタイトルにモヤモヤしたものを感じている。どうも救え!という言葉に重量感を感じてしまって、著名で影響力のある方同士がいくぶん激しいやりとりをされていて心が苦しい。今一生さん、そしてDr.Keiさんがブログやツイッターで考えを述べられているので、そうだよねと思ったり、いろいろ考え込んでしまったり。

ひとり親について、その生活問題を語る切り口の多くは就労や所得保障だ。いずれも光の向きは親だ。子どもが抱える孤立感、違和感などは施策上は放置され気味だ。このPJのタイトルを見て、救え!という重い響きがマイナスの感情を萌芽させる可能性があるのではないかということだ。今苦しい生活状況を見ている子どもから見れば、救いを受けなければいけない対象なのかということ。敢えて支援する側と言うが、支援する側にしてみればそんなつもりはないのだろうが、変えなくてはいけないのは政策であり、性別役割分業意識が今も色濃く制度に蔓延る、ひとり親やその子どもが生きにくい社会そのものなのではないか。あるいは問われるのは支援する側なのではないだろうか。


当事者は一様ではない。子どもの思いも様々だ。心は揺れ動く。ちょっとした言葉が当事者である子どもにも親にも揺らぎをもたらす。そしてその揺らぎが心の根っこを揺るがすかもしれない。それは家庭の所得の多い、少ないではない。

最近感じたこと

しばらくぶりに更新です。

相変わらずバタバタしていますが、なんとなく形になりつつあったり、はじめの一歩踏み出せそうだったり、やはり秋っていいなって感じたり、そんな最近です。夏場は北海道やら愛知やら三重にぶらぶらしてたりしましたが、秋季が始まる前に、駆け足でしたがモントリオールを回ったりしておりました。


この1ヶ月は生活のリズムもようやく安定してきた感じです。そんなリズムの中ですが、小学校時代の友人と大学時代の友人と時間を共にする機会を得ました。ふと、東京でそうした機会を持つのは珍しいなとふと考えてしまいました。確かに友人たちは学校を出て、地元で生計を立てています。北海道、三重で小学校時代を過ごしていますが、全員地元で元気にしています。東京をはじめとする首都圏への人口流入、所謂一極集中の問題が言われる中で、ちょっと意外な気がしました。北海道や三重であっても、東京の人が帰ってきたーといじられ、そんなことないよー、地元大好きw みたいな会話がだいたい出てきます。そろそろ世代的にも、パートナーと暮らしを共にしたり、家族が増えていたりする中で、近くに親がいることの安心感はやはりあるようです。単純にうらやましーぞっとw あと意外とというか、資格を取得して、働いている人がかなりの割合でいるということにも気づきました。保育士、介護福祉士、看護師、トレーナー、一番多いのは美容師かな。その背景はよくわからないけど、みんな学校を出て、いろいろありつつも働いている、暮らしている、改めて考えてみると、すごいことだなと思います。


自分は小学校時代から、東京志向というか東京に憧れを持っていたように思います。完全にテレビと雑誌の影響ですw 東京に行けば楽しいことが待っている、そんな期待があったんだろうなと思います。だからこそ、記念受験先で選んだところも、東京の大学でした。京都の大学も選びましたが。結果としては、京都の立命館から海外に行き、そして東京で今暮らしています。東京での時間もそれなりに経っていますが、楽しみは自分でつくらないと意味がないと、今更ながらに痛感しています。そういう意味においては、場所は場所であって、 楽しみや幸せは東京に来たからといって、自動的に得られるとは限らないということでしょう。ただ一方で、東京に足を踏み入れたからこそ気づいたこと、楽しかったこともあったのも事実です。また、東京の様々な面に接するにつけ、イメージも変わってきました。ただし、3周回ってようやく整理できたような感じですが。

東京といえば流行の発信地、情報の宝庫みたいなイメージを漠然と持っていました。確かにそういう面もあるなと思いますが、一方でゆったりとした時の流れを感じさせるコミュニティもたくさんあることも知りました。大都市特有の問題も顕在化してはいますが、様々な暮らしがあり、いろんなコミュニティが並存しているところなのだなと今は思っています。

今は東京への願望/欲望というより、東京を1つの地域として、多面的に見つめたいなと思っています。近い将来、東京を離れることにはなるでしょうけど、それまでは、東京ライフもっと楽しみたいなと思います。


それで、これからどこで暮らすのかは、まだぼんやりとしか考えていませんが、小学校時代の友人は「こっちに帰ってこいよ」と必ずいってくれます。昔なら帰る場所なんてないよと返していたでしょう。先日は、あと2、3年東京でがんばると言ってました。気心の知れた大切な友人と同じコミュニティで暮らしていいんだ、もうちょっと先だけど楽しみになってきました。

待つ人 ー里親ー

新年度が始まると同時に慌ただしくいろんな仕事の依頼に対応しつつ、講義や学務に追われている。そんなせわしない中、5月の風を感じるのは朝・晩の送り迎えと移動時間。桜の季節があっという間に過ぎ、若葉が太陽と風のハーモニーの中で、輝きを増している。子どもたちも、新年度を迎えたドキドキ感からワクワク感へ気持ちがシフトしているように見える。大学やNPOにもさわやかな新風が吹き込んで、新しい環境で奮闘する姿を見て、こちらも頑張ろうという思いを新たにしている。


さて、新年度に入ってからいくつか人前で話をさせて頂く機会を頂いた。その中の1つ、里親になる人を対象にした研修会。私の経過はかなりレアケースで余り意味がないのではないですか?と最初は固辞したのだけれども、それでもよいとのことで引き受けることにした。


里親になりたいという人の前で余りネガティブな話はしないように、ただ淡々と思いと現状を話すことにした。里親との出会い、里親との暮らしや葛藤、そして大人になってからの思いなどなどをなるべく整理してわかりやすいようにまとめたつもりだったが、意外にその準備作業が大変だった。その当時の記憶は断片的に覚えていることもあれば、そうでないものもあり、過去の同種のスピーチ原稿や資料を漁り、思い出したくない黒歴史も織り込みつつなんとか完成。




私は自身の障害もあって、療育の必要性が重視されたこともあって週末里親が幼少期は多く、施設と里親のもとを行ったり来たりしていた。その後学齢期を少し過ぎてから里親へ委託された。今思い返せば、あれがマッチングだったんだとかこれが「慣らし」かとわかるけど、当時から天邪鬼だった自分は何だそれみたいな感じで自分のことでもどこか俯瞰していたように思う。特に学齢期を過ぎてからの里親委託に関しては、ニセモノの両親なんて要らないとやんわり意思表示していたらしく、児相の職員さんを相当困らせていたようだ。


今だからこそ言えるけど、里親の役割って大切だと思うし、大変だなとも思う。子どもの複雑な思いに寄り添うことがいかに大変か、寄り添いたいと里親が願うほどに、距離を取りたがる子どももいる。様々なやりとりをしながら、距離を縮めて、いい塩梅の距離感ができる。もちろんやりとりの中で距離感が遠くなることも、時には破綻することもあるけど、それは人と人とのつながりであってある意味であり得ることなんだと思う。親になりたいと思っている里親さんは多いとは思うけど、子どもの思いは様々だ。家族がほしいと思っている子どももいれば、居場所がほしいと願っている子どももいるし、施設から出られると喜んでいる子どももいる。そうした様々な思いを抱える子どもと向き合い暮らしていくのだから、相当な忍耐と覚悟がいる。


私の里親は年齢が若くて、余り親という感じがしなかった。(これをいうと、全力で親になろうと思ってたんだよ、と言われるけどw)ただ里親としては必死だったんだろう。医療関係に勤めていた里パパと保育士だった里ママだったけど、距離感をなかなか詰められず悩んだそうだ。自分は全く覚えてないけど、里パパ、里ママに「俺の親になるなんて100年早いんだよ」と言葉をぶつけたときはひどく落ち込んだという。ホンモノの親はどこかにいると信じていたし、何かと絡んでくるのでうっとおしかったんだろうな。




途中いっぱい黒歴史も思い出したくないくらい作ったけど、そんな自分でも待っていてくれた。居場所でありたいといってくれた。その思いが嬉しかったし、自分も次への一歩を踏み出すことができた。里親と施設の間を行ったり来たりする中で、気づいたことは、待っている人、場所があることの大切さだ。


研修会でお話ししたのは、諦めずに待っていてくださいということ。確かに思い通りにならないことも多いし、もどかしく思うこともあるでしょう。


子どもは一歩一歩自分の中にある思いの種を握りしめながら、それを大地にまきつつ、渡してくれるときがくるはず。少しわかりやすくはない例えだけど、子どもが親に直接思いを伝えることだけで、自分の気持ちを表現するわけではない。時に寄り道しながら、いろんな種を蒔いていく。時に自身で回収したりするだろうし、ひっそりと咲くだけでいいと思っているときもある。たまに種だけ親にぶつけてるときもあるが。いつかきっと花が咲き、実をつけ、大地を豊かにする源になる。



里親は「待つ人」なんだな、研修会で話す内容をまとめてみたら、そんな結論になった。

1・17を刻む その2

日曜日に書くつもりだったこと。

官房長官は復興したと言っているけど、現状はどうなのか。昨年秋・冬と新長田を訪ね、いろいろお話も伺ったり、街を歩いたが復興はまだ途上、そんな思いがした。なぜ亡くならなければなかったのか。最愛の人を亡くした人の悲しみは、時が経ったからといって、消えるわけではないのだ。ある方にお話を伺い、復興ってなんだろう、何があれば復興となるのだろうか。年月を重ね、様々な出来事が起こる。その出来事に最愛の人がいない。その思いが離れないそうだ。

阪神淡路大震災とは何だったのか。地震自体は過去のことなのかもしれない。しかし、災害対策やまちづくり、にぎわい、関係の紡ぎ直しなど、現在も動いている。

明日は震災と自分について綴っておきたい。