子どもたちの思いに寄り添うことからはじめたい。

NHKEテレ福祉ネットワークで、「里子の死から考える(仮)」が放送されるとのこと。研究室のみんなも注目をしているようで、学園祭の準備で忙しい中、連日のように、児童養護に関するテーマについて、研究室などで議論をしていた。

ちょうど施設実習も終えた学生さんも多いので、話す内容も非常に地に足がついたというか、説得力のあるものが多かったように思う。ということもあってみんなでこの番組はチェックしようねということになった。

しかし私は、この番組あまり積極的に関心を持つことができないでいる。掲示板もざっくり拝見させていただいているが、「里子は様々な問題、障害を抱えているから大変だよね」という類のものがやはり多い。施設養護にしろ里親にしろ、何かにつけて「子どもは様々な問題を抱えている」というふうに、さらりと子どもと問題を結び付け、一方的なラベリングがなされる。私はこのような問題の捉え方にこそ、問題の核心があると考える。

杉並の事件が、非常に衝撃なニュースとして捉えられ、報道された。その一連の報道や里親推進に関わる人たちからは、子どもの愛着障害やためし行動が原因ではないかなどの声が上がっている。その声については、急に未来を奪われた子どもの心をさらに踏みにじることになりかねない、大人の側の一方的な主張だと私は見ている。


施設での育ちの中には、職員とのぶつかり合い、子ども同士のトラブルなんて、たくさんあります。そうした日常の行動を、「障害」や「問題行動」というフィルターを通して、みてしまっていないだろうか。施設養護と里親で育ってきた自分にとっては、そんな恐れを持っている。

自分は善意でしているのになぜ問題行動を起こすのか、実際、そんな思いが施設の職員さんとのコミュニケーションの中で、見えてしまったこともしばしば。今回の里親による虐待報道の根っこにもそうした一方的な大人の側の思いがあるのではないだろうか。


「困難な障害を持った子どもたちを育てるのは太変だ!!」

               ↓

「固有の愛着関係を築ける相手が必要だ!!」

               ↓

「子どもは愛着障害を持っているから関係構築がムズカシイ・・・」


何だか、無限ループにはまっている。しかも、この無限ループが続くと、里子や施設で育つ子どもは、「問題を抱えた子ども」という無責任な言葉を流布し、子どもの幸せな生活を著しく制限することになっている。

ここらへんは、研究者である私にとっても、課せられた大切な課題だと認識している。しかし、援助者や社会に広く根付いてしまったフィルターを変えることにはかなりのエネルギーと長い道のりが必要となっている。

とかく、児童養護の問題を語るとき、児童にどんな問題があり、どうケアをしていくかという「大人目線」での議論になりがちである。しかし、ケアする側の大人を支えれば事足りるというわけではない。今回の里親の問題で言えば、もちろん里親のしんどさに耳を傾けることはとても大事だけれど、環境の変化に戸惑う子どもたちに、心に寄り添うことが何より大切だ。


これ以上里親制度によって、里親もそして何より里子も苦しむことがないようにしなくてはいけない。
行動あるのみ。