地域で暮らしたいという意思を尊重できる社会に

2月、3月は次年度に向けて、様々な打ち合わせが入りまともに研究・研鑽の活動の時間が取れないでいる。研究時間は自らで確保せよといったのは、私の大学院時代の恩師。何のために研究するのかという原点に立ち返り、新しい課題に取り組んでいきたい。


ところで、昨日大変恐縮ではあるが、毎日新聞の2月12日付の社説及び厚生労働省に、不満をぶつけるかのような記事を書いた。そうしたところ、プレゼミ生、ゼミ生から毎日新聞の社説のどこがだめなのかわかりませんとか、地域間格差が出ることは仕方がないのではないかとか、そもそも、障害のある人が現実離れした提案をしたのがいけないのではないか、というような意見を頂戴する。そして、ツイッター上でも、経済学の観点から貴重なご意見を頂いた。


ゼミ生の意見とともに、もう一度今回の問題について共に考えてみたい。まず基本的な事項からおさらいしておきたい。


平成17年に成立した障害者自立支援法。この法律に対しては、障害のある人を中心にして、大きな反対運動が起きた。その反対の理由の1つは、今までの措置制度等における「応能負担」から「応益負担」へ、自己負担の在り方を変更したことに伴う重すぎる負担であり、もっと本質的な部分言えば「益」そのものへの違和感であった。

民主党は、法律の制定前から山井議員などを中心に自立支援法について、明確に批判を行っていた。また、民主党社民党国民新党連立政権に政権が変わると、平成25年8月までに自立支援法を廃止するなどとした基本合意書を自立支援法違憲訴訟において、原告側と取り交わして訴訟は和解している。

そのうえで、障がい者制度改革推進本部を設置し、障害者に関する制度改革を集中的に行うこととなった。その本部のメンバーは実に様々な当事者団体が名を連ねて、大学の教員や市町村長などもそこに加わっている。多彩なメンバーが様々なニーズとニーズのぶつかりあい、違いを乗り越え、自立支援法に代わる障害者総合福祉法案の骨格提言を2011年8月にまとめ上げる。これだけ多彩なメンバーが集まると、まとめ上げることも容易ではなかったことが推察できる。

しかし、今回示された障害者総合福祉法案の厚生労働省案は、自立支援法の微細な取り繕いに終始し、骨格提言をほぼスルーした。私も、推進本部が立ち上がった時は、やっと障害者福祉実現した、つまり、自分たちの暮らしにかかわることについて、意見を自ら表現できるステージに入ったのだ、まさに自分たちのことは自分たちも堂々と意見を言い、制度作りに積極的に参加できるという新時代に突入したのだと感じた。



とはいえ、不安があった。今回の推進本部のメンバーはいずれも≪関係者≫であることだ。障害のある人たちの暮らしにかかわることは、今まで厚生労働省の官僚が、参考意見として障害当事者の意見を消費しつつ、障害者政策を立案してきた。その胆は、社会全体の様々な要因、人口構成や世論や財政などもそれに入るが、様々な人たちの効用と全体の社会的厚生の総量を見通して、政策の可否を判断してきたと概ね言える。

つまり、≪非関係者≫の人たちの厚生も視野に入れて、官僚は判断する。(かなり甘い官僚評価であることは言うまでもない。)だとすると、今回の厚生労働省の素っ気ない提案は、実は「想定の範囲内」とも言える。つまり、あなたたちの言っていることはわかるけれども、そんな一足飛びに理想を実現できるほど、甘くはありませんという主張をしてきたのだ。様々な構成員がいる社会において、障害のある人にのみ、理想的なサービス提供がなされれば、他の法体系、政策にも影響が出かねない。「現場の混乱」が想定されると厚生労働省は、骨格提言実現がもたらす影響を「現場」に押し付けたが、本音はそういうことなのだろうと私は、勝手に推測している。

だとすれば、今後の課題は、いや積年課題でもあるのだが、いかに≪非関係者≫の人たちとの議論を尽くし、理想を具現化させるための環境を形成するかである。

今後の議論のために、自立支援法制定時の「応益負担」への反対論がなぜ湧き上がってきたのかということを考えてみたい。ただし、岡部耕典さんの論文[1]などを基に、今のゼミ生のみなさんには少し解説したので、ここでは大幅に割愛させていただく。そうは言うものの、「益」そのものがもつ意味合いについて、私が感じていることを簡潔に記しておきたい。障害者自立支援法制定前に、私が勤務するNPOで法案に対する率直な思いを聴きたい、取りまとめたいという動機からインタビュー調査を行ったことがある。そのインタビューで印象に残った言葉がある。「生きるために、あるいは暮らしていくために必要なサービスを求めているだけ。贅沢をするためではないし、障害のない人と同じように普通に暮らしたいだけ。それを利益のように言われるのは、心外である。」
根源的な言葉である。障害のない人とある人では、何もサービスがなかった時に、できることに明らかな差がある。その差あるいは制約は、社会的に構築されたものであり、障害のある人に何ら責任はないし、負担を負う必要は、本来ないはずである。
しかし、財政上の理由から1980年代からいわゆる受益者負担論が台頭してくる。しかし当時の議論においては、応分の負担が自立の意識の向上にもつながるとして、その意義を示している。つまり、受益者が費用の一部を負担することは、社会の一員として、当然なされるべき自立及び自助の努力であるという主張であった。言うなれば、今の応能負担の源泉ともいえる主張である。

その後、障害者福祉制度は、措置制度から、支援費制度、自立支援法と根幹をなす法律がコロコロ変遷するという混迷の様相を呈する。しかし一貫していることは、国の財政負担が増えるに従って、「福祉抑制策」として制度の改変が行われていることだ。ただし、そんなことを率直に言えるはずもないので、関係者や非関係者を納得させるために、自立支援や福祉サービスの主体的選択などをうたい文句にし、制度をバージョンアップしたかのように、取り繕うということを積み重ねている。

また、地方自治体によってサービスが異なることには、私は違和感を覚える部分もある。少なくとも骨格提言が示す全国共通の仕組みで提供される支援のメニューについては、全国一律であるべきだ。これらのメニューについては、基本的な生活を送るに当たり必要な支援であり、地域間で格差を容認することは、障害のある人の暮らしそのものを脅かすことを許しかねない。

一方で、骨格提言も認めているように今の地域生活支援事業の仕組みは残すべきだ。地域における社会資源をうまく活用し、また他分野や市民との協働による独自のサービス展開が可能な仕組みは、地域全体のQOLの向上にも資するはずである。
地域における実情に応じた支援を行うには、地域における様々な社会資源を有機的に結び付ける必要に迫られる。裏を返せば、そうした支援を行うことによって、地域の皆さんひとりひとりにとって、暮らしやすさが増すようになるのではないか。

再度繰り返すが、今回の厚生労働省案の提示によって、次になすべきことは、実現していくために、愚直でそしてわかりやすい発信、そして合意形成に向けた≪関係者≫の拡大だと思われる。この長く険しい道のりを踏みしめることが、よりしなやかで、揺るぎのない新しい福祉の在り方を示すことになると私は確信している。

参考文献

堀勝洋「身体障害者福祉対策の利用者負担の現状とその在り方について」『季刊社会保障研究』Vol19 No3 pp 312‒330 1983年
峰島厚「転換期の障害者福祉」全国障害者問題研究会出版部 2001年
峰島厚「障害者自立支援法と実践の創造」全国障害者問題研究会出版部 2007年
京極高宣「障害者自立支援法の課題」中央法規出版 2008年
障害者自立支援法違憲訴訟弁護団障害者自立支援法違憲訴訟―立ち上がった当事者たち」生活書院 2011年

[1] 岡部耕典「障害者自立支援法における「応益負担」についての考察」『季刊社会保障研究』 Vol44 No3 pp186-195 2008年