「程度」を問うことと「本質」を問うこと

福祉の制度改革に関わる問題について、議論をするとどうしてもかみ合わない価値観の違いに遭遇することが間々ある。当事者が問題の重大性を叫んだところで、大勢の非関係者の社会的効用の前に、数の力で屈してしまう。いくら、当事者にエビデンスベースドの根拠があったとしても、「だから、どうした?」あるいは「私たちには関係ない!」と言われてしまえば、当事者は敗北してしまう。

民主党になってから障害のある人に関する制度の改革は、劇的な変化を伴って行われるのではないかと、ひそかに期待していた人も多いのではないだろうか。しかし、ふたを開けて見れば、総合福祉部会の「骨格提言」からは大きく後退した。そして自立支援法違憲訴訟で取り交わされた合意書には、完全に反するものであった。
障害者制度「改革」は、行政の都合により積み重ねられてきたものである。理念の問題に始まり、制度設計に至るまで、数々の問題を指摘された障害者自立支援法であるが、これもまた支援費制度の総括を全くせず、財源問題にあたふたしてしまった厚生労働省の失策の産物である。いわば失敗のツケを当事者や支援に携わる人が負担させられる構図というのが、ここ10年ほどまったく変わっていないのである。

どうしてこの構図が変わらないのだろうか。障害のある人たちがいかに正論を突き付けようとも、厚生労働省がまったく動かなかった背景には何があるのだろうか。
今回の総合福祉部会が取りまとめた骨格提言は、障害者の権利条約を下敷きに、違憲訴訟での合意も踏まえ、様々な当事者の人たちが知恵を出し合い、提言としてまとめあげたものである。もちろん、提言の中では、安定した財政基盤の確立の必要性、そして負担と給付の透明性、納得性、優先順位などを明らかにする必要があることも指摘している。

にも関わらず、今回の制度改正では、従来に比べて、財政上の歯止めの部分にはほとんど変更はないなど、法律文の内容修正は極めて不十分であり、表紙の付け替えとしての名称変更と、本の帯としての理念が付け加えられただけに留まった。支援費制度がつくられて、厚生労働省は眠っていた潜在的サービス利用の欲求に、真正面から向き合わず、結果として財源問題の処理に、政策運営の舵が切られた。

支援費制度は、社会福祉基礎構造改革の一環として出されてきたものである。従来の措置制度から契約制度へと制度の根本的な見直しが行われたものである。制度の主な欠陥として、精神障害、難病等の特定疾患の人たちが制度の対象外となっている点などが指摘された。しかし、今までの行政の措置に基づくサービスから、利用を選択することができる契約制度へ移行したことにより、潜在的ニーズを掘り起こした点は評価できる点であった。厚生労働省は、この需要予測を怠ったばかりか、需要が予算規模を超過することが明らかになると、サービス利用の抑制を考えるようになったのである。
自分たちもサービス利用できるようになるということで、前に進んだ支援費。しかし、サービスを受けるには、「負担」が必要です、一見まともに見える論を持ち出して、サービス利用を抑制しようとした。この一見まともに見える論が「応益負担」である。しかし、応益負担を突き詰めれば、障害が重い人ほど多くのサービス利用が必要であり、負担が増えるという制度設計であるということだ。つまり、社会的な制約をより多く受けている人が、より受益者負担を強いられるということになる。

これは、さすがにおかしいのではないだろうか。社会的制約を受けているかどうかは、程度問題の観点から、検討すべきだという主張もあるだろう。しかし、程度問題の観点から制度改革を眺めていては、いつまでたっても、障害者政策の高度化は図られないのではないか。措置制度においては、行政機関がその程度問題について、是非を判断していた。その是非の判断に当事者や支援者が関与する余地はほとんどなかった。
しかし、世界では障害者の権利条約では、その第19条に「すべての障害者が他の者と平等の選択の機会をもって地域社会で生活する平等の権利を認める」とされており、地域社会での生活必要な支援を受けることができるとされている。日本でもこの条約について、批准するために様々な動きをしようとしてきたはずだ。そうした点からも、今回の改正案では極めて不十分だ。

もう1つ指摘しておきたい。福祉制度が存在する意味である。障害者基本法の第3条を読んでみたい。

第三条

第一条に規定する社会の実現は、全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有することを前提としつつ、次に掲げる事項を旨として図られなければならない。
一  全て障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が確保されること。
二  全て障害者は、可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと。
三  全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ」とある。第1条に規定される社会とは何だろうか。併せて1条も見ておこう。

第一条
この法律は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり、全ての国民が、障害の有無によつて分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策に関し、基本原則を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策の基本となる事項を定めること等により、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策を総合的かつ計画的に推進することを目的とする。

全ての国民が、障害の有無によつて分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会が規定されている社会である。

障害のない人と同じく、基本的人権を享有し、個人の尊厳を重んじられ、その尊厳にふさわしい生活を保障されることは「前提」であると書かれている。様々な社会的制約を「程度問題」として捉えることは、この法律の趣旨に反しているのではないか。

障害のある人は、常に「障害者」として一方的にラベリングされ続けている。それはおかしい。まず障害の有無にかかわりなく享有しているはずの基本的人権をきちんと具現化させることが必要なのであって、先に述べた障害者の権利条約19条の具現化も、それに資するものであるはずだ。
骨格提言は、障害者の権利条約を下敷きにしている。つまり骨格提言の意味するところは、今現在障害のある人が置かれている状況が、本質的な問題を抱えているから、本質の部分からまるごと制度を変えましょうということである。「程度問題」ではないのだ。

財源の問題についても、そういう観点に立てば、障害者基本法の示す目的に依って、必要な負担を国民全体で行うべきである。多数と言えども、一部の人に関する政策だけが、その人数の多さだけを理由として、優先順位が必然的にあがり、フォーカスされ、政策を運営することは、憲法障害者基本法の法理念に反する。一方で属性の異なる人たちの福祉サービスの問題が、国民全体の負担の中で位置づけられれば、属性による社会的な制約が軽減する効果も得られるのではないか。

人はライフサイクルの中で、様々なイベントに遭遇する。その中で様々な属性にカテゴライズされることもある。抱えてしまった属性により、人間としての基本的尊厳や幸福追求権が害されることがないようにしなくてはいけない。
「わたしは、障害者としてではなく、まず人間として扱われたい」との言葉から始まったピープル・ファースト運動。非常に重たい言葉だ。この言葉をきっかけにセルフアドボカシーへの理解が広まり、様々な運動に波及することになった。つまりは、基本的な尊厳も、基本的人権も、人と人との不断の相互理解と協力によって成り立っていることも示唆している。その相互理解と協力が途切れてしまっている状況を是認することは、人間の尊厳そのものへの批判、つまり自己否定になりはしないだろうか。

障害者政策を推進することは、決してごく少数の人のための固有の政策ではなく、日本社会で誰もが、幸せに生きるためのパーツの1つである。そのパーツを組み立てるのは、日本社会に住まう人たち全員の責務である。