大学でも学ぶにも「障害」がある。

最近、障害のある人たちに関する記事が多くなっている。当事者という立場、支援者という立場、両方の立場を併せ持っている私なので、先日も、とある大学の先生から、あなたは当事者なのですか、支援者なのですか、傍観者なのですかと問われることがある。一番最後の傍観者というのは、いろんな意味がこもっているのですけど。私は属性をはっきりさせるのが、正直苦手である。物事の全体像を見失うことになるのではないだろうか、と考えているからである。そう考えるに至った、もはやライフワークの1つになっているテーマを今日は取り上げてみたい。


今日は、障害学生支援の実態を考えてみたい。平成23年度(2011年度)障害のある学生の修学支援に関する実態調査が平成24年2月に日本学生支援機構から発表された。障害のある学生が高等教育で学ぶために、どのような課題があるのかということを取り上げてみたい。


障害学生支援とは何だろうか。いわゆる高校までの学校教育では、あまり聞きなれない言葉だ。なぜ、聞きなれないかと言えば、高校(あるいは専攻科)までは、養護学校、今でいう特別支援学校が存在し、支援を必要とする多くの生徒はそちらでの教育を受けるからだ。つまり、地域の学校では、支援を必要とする学生の数が多くないからだ。
最近では教育委員会の就学指導の壁を乗り越えて、普通学校(地域にある学校)への進学、入学を果たす障害学生の数も増えてはいる。あくまでも、特例という形ではあるが。
日本では、特別な支援を必要としない学生が地域の学校に通い、特別な支援が必要な学生は専用の教育機関に行くのが、常識とされている。特別支援学校までは、個別に支援計画を作成し、必要な支援を提供することを当然として行われているので、教育現場では、あまり障害学生支援という言葉になじみがない。

この障害学生支援という言葉が、市民権を得ている教育現場はどこだろうか。それは大学・短大、高専(以下、大学とする。)などである。それは、高校までとは違い、特別支援教育の課程が存在しないからである。いわば、高校までの「分離教育」から大学では「統合教育」が行われていることになる。

大学として、支援が必要な学生をどうサポートするかは、非常に悩ましい課題である。支援の在り方は、大学によって異なる。国として、高等教育機関での障害のある学生の受け入れに関しては、高校までとは違い、一律の基準があるわけではない。また、大学の財政規模や大学の教育方針により支援内容が大きく左右されるという実態がある。

高等教育における障害のある学生の「おおよその数」は、日本学生支援機構が、平成17年に初めて政府機関として明らかにし、その後も継続的な統計調査が行われている。それによれば、平成23年5月の時点で、大学に通う障害学生の数は9404人であり、短大、高専も含めれば10236人である。日本学生支援機構の調査では初めて1万人を突破したことになっている。おおよその数とはどういうことか、発達障害を有する学生は、障害学生の数には含まれていないし、それ以外にも、隠れた障害学生も少なからずいる。
調査から読み取れるものとしては、通学制の教育機関より、通信制の教育機関の方が在籍率が高いこと。また、障害学生の中で、支援を受けている(受ける予定)の学生はおよそ57%であるということだ。
発達障害を抱える学生の支援の問題は、大学としても重要な課題であると認識されている。発達障害を抱える学生の概況は、日本学生支援機構の今回の調査である程度うかがい知ることができるので、ぜひ調査結果をご覧いただきたい。

日本学生支援機構の統計調査は、大学側から見た調査結果であって、障害学生支援の実態を鑑みれば、極めて不完全なものだ。それは、支援が支援を必要とする学生に行き渡っているかどうか、という点について統計調査がなされていないからだ。そもそも、調査方法等にも限界があるのかもしれないが、大学側が感じている支援の課題について、その実態を明らかにするという観点から見れば、大学側への調査だけではなく、学生や教員への調査を行う必要がある。

支援が行き届いていないのではないか、私がこの問題にこだわるのには、およそ10年ほど前の大学時代のほろ苦い経験がある。

そもそも障害学生とは、日本学生支援機構では、基本的に各種福祉手帳を有している学生のことを指している。障害学生支援の大きな壁の1つは、大学内の情報共有のむずかしさである。大学で一番障害者手帳等の保有状況がわかるのはいわゆる「保健センター」であろう。その保健センターから、支援に関する情報がスムーズに提供されればよいのだが、個人情報の壁もあり、セクション同士の情報提供も難しい実態がある。
もう1つは、入試センターだろう。ただし、これも重度の障害であれば、その後の対応を比較的早く対応ができるだろうが、見えづらい障害の場合は、支援が必要であるかどうかの判断が遅れるケースが目立つ。いずれにしても、大学内での情報の共有は、高度に官僚化が進んでしまった大規模校であればあるほど難しいといえる。

障害学生の側も入学後の支援に関する相談はどうすればよいのか、という点で非常にエネルギーを使うことになる。ともすれば、入試に使うエネルギーより、エネルギーを消費するという声さえ聴く。そりゃそうだよね、今までは支援をするのが前提となっていた教育機関から、自ら障害学生支援についての無理解という状況を潜り抜け、自らの力で支援を構築していかなくていけない環境に変わるわけで。
社会に出れば、支援が必要ならば、きちんと声をあげるべきだという主張もある。しかし、支援を構築するために、学びのエネルギーをそぐ結果になっている現状を改めることは、前提条件抜きに必要なはずだ。健常者に合わせることを求める社会が大学でも横行することは、社会を変えるために、よりよい社会を創るために存在する大学そのものの存在意義の否定である。障害のある学生がない学生と同じスタートラインに立って、学ぶことができない。これを仕方がないとすることは、障害の「個人化」「自己責任化」を固定化させることではないだろうか。ひいては、障害があるから仕方がないという風潮を流布し、社会的に排除する、隔離することを助長することにもなりかねない。
そのエネルギーを学びにそそぐことができれば、もっと学びが充実するのではないかと、思わずにはいられない。翌日、きちんとサポートが受けられ、ちゃんと勉強できるか不安な状況下で十分に学習成果をあげるのは至難の業だ。

具体的な支援が進まない理由の1つは財政問題である。施設設備のバリフリー化や講義における手話通訳、ノートテイクなどに関する費用などを賄うには、国からの財源では極めて不十分な状況である。
国立大学には、障害学生学習支援等経費として、私立大学には経常費補助金の中で特別補助の形で文部科学省から財源が与えられる。(私立大学に関して、その実施の有無を含め、平成23年度、24年度の状況については、確認中である。)この財源、規模としてはものすごく不十分なものである。
平成22年度の経常費補助における特別補助の基準を見ると、障害のある学生の受け入れ人数が5人以下の場合200万、101人以上受け入れても、3600万である。また支援の取り組み項目1つあたりの補助も1件当たり10万円である。これでは、具体的な支援策を講じるのに、大学独自の財政基盤に委ねられることになるのも無理はない。

しかし、大学は障害があるからと言って、受け入れを拒否することはできない。試験に合格すれば、受け入れを考えなくてはならない。まさか、尼崎の不合格訴訟のように、大学がその裁量で、合否を決めれば「開かれた大学」などという言葉は、虚構に過ぎないことを大学自ら認めることになり、大学の国際化を進める中にあっては、無理だろう。

そうした状況で、十分な支援が得られない学生は、自らサークルを立ち上げボランティアによる支援を形成するケースが非常に多い。大学生活を送るということは、実に様々な要素が積み重なっているのだということを、障害学生支援に携わると見えてくる。
大学生活で一人暮らしをする場合もある。あるいは大学までの通学をどうするのか、課題が出された場合どのようにこなしていくのか、実習などがある場合のサポート体制をどうするのかなどなどである。

大学の財政基盤が豊かでない場合、支援の中心は講義でのサポートが主になる。手話通訳、ノートテイクなどである。しかし、それでも必要な支援ができない場合は、大学は支援する学生をどのように募集するかということに力点を置く場合もある。しかし、その場合も支援が不安定になるリスクもあり、またそもそも障害のある学生の学びを保障するのは、大学であるということを放棄している。

東大などを中心に秋入学の検討がなされている。大学の国際化に向けた一環だ。では、学びたい大学とは何だろうか。誰でも安心して学ぶことできる環境をつくることだろう。それは国籍の違い、障害の有無など様々な属性を有する学生を包摂する学びの環境を保障することである。大学の国際化で、障害のある留学生の入学も十分に予想される。エリート教育の胡散臭さは、既に顕在化している大学の学びの保障に関する対策が取られていないにも関わらず、国籍の違い、文化の違いを学ぶことは有益だということを主張していることだ。障害があっても学べる環境を整備することができなければ、多様な学生が学ぶことができる大学など、虚構に過ぎない。

私は大学生の時代から、障害学生として、また時に支援学生にもなり、障害学生支援に関わってきた。アメリカやノルウェーの大学院で学んだ時、日本との支援体制の違いに驚きを隠せなかった。そして、大学教員になった今、教員の立場で障害学生支援に関わっている。しかし、障害学生支援を通じて、学ぶこと、社会に関わることの難しさに直面したことにより、今の自分があるとも思っている。
障害のある学生が安心して、学ぶことができる環境をつくることが、多様でしなやかな包摂力を持った社会をつくることになる。そのことを信じて、これから障害のある学生の学びの保障に、全力を注ぎたいと考えている。