シングルパパと息子たちが迎える母の日

もうすぐ母の日です。私にとってはちょっと苦手な日です。いろいろと想起させられることが多いからです。

妻を亡くしてから、来月で2年。あっという間。子どもたちにとっては、「母」という存在を意識せざるを得ない日でもあるわけで。よく保育園では、母の日や父の日に親の絵を書くというイベントがあると思うのですが。むすこたちが通う保育園でも、そんな感じの活動が用意されています。去年、保育園組の息子たちは、全く書けない状態でした。今年はどうなることか気が気ではありません。

母の日。自分の子ども時代も悩みました。母の絵を書いてくださいと言われて、誰の絵を書けばいいんだよ!!と悩んだこともありました。母への感謝の作文を書けと言われ、母なんていない!!と頑なに書くのを拒んだ記憶もあります。自分にとっての母や誰なのでしょうか。生みの親でしょうか。里親でしょうか。施設の職員でしょうか。無配慮に親への感謝を表明することを強制されるイベントを目の前にすると、「あ〜自分は普通の子どもではないのだな」と否応なく実感することになります。

大人になって感じることもあります。大人になるとどうしても、親をはじめ、子ども期を共に過ごした大切な人と過ごす時間が限られてしまいます。限られていることを実感して気づくこと。限られているからこそ、幸せな日々を積み重ねていってほしいなということです。ありふれた思いなのかもしれませんが、今の日本社会、いろんな不安なことが叫ばれている中で、幸せな日々を積み重ねることがいかに大切なことなのか、そんな思いを抱かずにはいられません。

私は、生みの親と共に暮らせないまま、そして、両親ともに亡くなってしまいました。里親とは折り合いがよいなんて決して言えるわけもない子ども期を過ごしました。親や大人に対して言葉にできないような「恐れ」の感情を持っています。よく施設の職員は、生んでくれた親をそんなに悪くいうものではない、と言い聞かせようとしてきました。自分がどんなに親と暮らしたかったか、そんな思いは口にすらできない、それがどれほどしんどかったことか。そんなこともあって、恐れの感情を抱いています。


話を息子たちに戻しましょう。子どもたちにとって妻はどんな母親だったのか。ちょっと聞いてみたい気持ちもあります。息子たちにとっては、最愛なる人に変わりはないわけですから。母親がいなくなって寂しい、ストレートに口に出すことはありません。たぶん我慢してるんだろうなとは思います。もう最愛の人に甘えることもできないし、それを私にいったところで私が困ってしまうことも、彼らなりに気づいているからかもしれません。

でも、2年が経とうとしている今、母への思いを率直に語れるようにしたいなとも思っています、無理強いはしませんが。私に遠慮しているとしたら、私が子どもたちの幸せの邪魔をしていることになっちゃいますし。もう自分がいることによって、自分と関わることによって、不幸になるようなことは絶対に回避しないといけない、そう思っています。

願わくば、息子たちが大きくなった時に、とーちゃんと暮らせてよかったと言ってもらえればどんなに幸せなことでしょう。自分勝手な願いだというのはわかっています。親とありふれた日常を過ごすことすら、叶わなかった自分としては、手探りなことも多く、不安がいっぱいなことの裏返しかもしれません。日々を幸せに積み重ねること、うまくいかないことも多々ありますが、大切にしていきたいと思います。


母の日。思い悩むこともある。その思いにとーちゃんは何もしてやれんのがくやしい。でも、これからもずっとみんなの成長と幸せ、見守っていたいです。