ゆりかごは誰をケアするために出てきたのだろうか。

最近は子育て日記のようになってしまっていたこのブログ。別にそれでも良いのだが、書きたいことはたくさんあった。が…GW中は、様々なことがあって書く時間をつくることができなかった。書きたい時に書く、それが自分でも納得したレベルのものを書ける気がしている。出来る限り、書きたいことが見つかった時、煮詰められた時に書いていきたい。



さて、今日はゆりかごについて考えてみたい。また子育て日記だよと思った皆さん、半分くらい正解です(笑)毎日新聞朝日新聞などで、「こうのとりのゆりかご」に関する記事が出ていた。今日はこれについて考えてみたい。


毎日新聞にどんな記事が乗っていたのか。一部抜粋したい。

赤ちゃんポスト:10日で5年 問われる匿名運用


熊本市の慈恵病院が設置した、親が育てられない子供を匿名で受け入れる「赤ちゃんポストこうのとりのゆりかご)」は、10日で運用開始から5年を迎える。同病院の蓮田太二理事長らは8日に記者会見し、受け入れた子供の身元を判明させる努力をしつつ、匿名での運用を続ける考えを改めて示した。


病院が受け入れた子供は07年5月〜11年9月の約4年半で81人。蓮田理事長は会見で、「人に妊娠・出産を知られたくないという思いの強い人が来るのだから、匿名での受け入れは必要です」と強調した。更に4、5月に福岡で乳児の遺棄事件が相次いだことに触れ、「(匿名では受け入れてくれないと)誤解されていないか心配だ」とも語った。

毎日新聞より一部抜粋)

まず毎日新聞に言いたい。記事の見出しに「赤ちゃんポスト」を使用する意図は何なのだろうか。きちんと「こうのとりのゆりかご」または「ゆりかご」という言葉を使用するべきだ。毎日新聞はきちんと、その意図について説明してほしい。


その上で考えていきたい。記事には、淑徳大学の柏女先生や帝塚山大学の才村先生がコメントを寄せていた。匿名で受け入れた子どもたちは出自がわからず苦しんでいると指摘したうえで、誰が親なのか、育てられない理由もわからないままになるので、ゆりかごの匿名には反対ですと記事の中で才村先生は述べている。

私は記事の見出しにある「問われる匿名運用」というのは、少し違うと感じている。本当に問われているのは、運用ではないと考えているからだ。匿名運用以前の問題として、子どもたちの命を救うことができるかということが元々は問われていた課題だったはずだ。しかし、現実には乳児の遺棄事件は未だ発生している。この現実に目をそむけてはいけない。



匿名での運用を否定する主な根拠は何だろうか。1つは記事の中にある、子どもには出自を知る権利があり匿名だと、それを行使することが極めて難しくなるということである。

出自を知る権利とは何だろうか。厚生労働省の厚生科学審議会生殖補助医療部会で「精子卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に関する報告書が2003年に出されているが、その中で「出自を知る権利」について明記されている。報告書の中では具体的に以下のように記載されている。

提供された精子卵子・胚による生殖補助医療により生まれた子または自らが当該生殖補助医療により生まれたかもしれないと考えている者であって、15歳以上の者は、精子卵子・胚の提供者に関する情報のうち、開示を受けたい情報について、氏名、住所等、提供者を特定できる内容を含め、その開示を請求をすることができる

欧州諸国では、AIDに関するドナー情報の匿名性を緩和する方向にあるようである。自らは何者かということを知ることはもっとも人間のアイデンティティに関わる欲求であろう。



もう1つ、出自を知る権利が書かれているものとして、子どもの権利条約がある。その第7条には以下のように書かれている。

1 児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。

2 締約国は、特に児童が無国籍となる場合を含めて、国内法及びこの分野における関連する国際文書に基づく自国の義務に従い、1の権利の実現を確保する。

「できる限り」という条件があるものの父母を知る権利と父母によって養育される権利を有するとされている。


才村先生は、2007年の毎日新聞の「闘論」において、子どもの権利条約第7条に触れている。しかし、子どもの権利条約の第20条には以下の内容があるのだが、触れられていない。

1 一時的若しくは恒久的にその家庭環境を奪われた児童又は児童自身の最善の利益にかんがみその家庭環境にとどまることが認められない児童は、国が与える特別の保護及び援助を受ける権利を有する。

2 締約国は、自国の国内法に従い、1の児童のための代替的な監護を確保する。

3 2の監護には、特に、里親委託、イスラム法の力ファーラ、養子縁組又は必要な場合には児童の監護のための適当な施設への収容を含むことができる。解決策の検討に当たっては、児童の養育において継続性が望ましいこと並びに児童の種族的、宗教的、文化的及び言語的な背景について、十分な考慮を払うものとする。

もちろん子どもには出自を知る権利はあるし、できる限りそれを行使できるようにする必要はある。しかし、家庭環境を奪われた子どもにはまず特別な保護、援助を受ける権利があり、それを行使することが優先されるべきである。出自を特定することが難しいという理由で、匿名での運用が認められなければ、せめて生きてほしいと願った親の思いを汲み取りつつ、子どもの生きる道を確保するという、ゆりかごの存在価値の根本がなくなることになる。



行政側の対応をもっと充実化させれば、匿名のゆりかご自体必要なくなるという意見もある。児童虐待に関してもよく言われることだが、相談するには高すぎる敷居を下げ、行政職員の対応力の高度化を図ればよいという主張である。しかし、ここ10年の動向をみてもわかるが、2004年の児童福祉法改正で児童相談自体の窓口は、市町村に移された。その点では身近になったとはいえる。一方で児童相談所における相談受付件数はここ数年36万件前後で推移しており、平成元年に比べて10万件程度増えている。しかし実践を担う児童福祉司の数は、相談件数の増加に比べると追いついていない。欧米に比べても、1人あたりが担当するケースも多い。

これだけ、虐待問題が騒がれているがリソースをつぎ込んで対応を強化しようとする動きは極めて鈍い。対応を高度化するには、時間がかかる。一足飛びにはできないのである。市町村に相談窓口が移行したとはいえ、その専門性について格差があることは少なからず指摘されていることでもある(現に才村先生も指摘されている。)。



まず命を救うこと、これが最優先されるべき最善の利益ではなかろうか。


ここからは少し私自身の思いを織り交ぜながら、ルーツを知ることの意味を考えたい。ルーツを知ることが本当に生きる道を切り開くことになるのだろうか。逆にルーツを知ることによって、親を苦しめてしまった、親に辛い決断をさせてしまった存在としての自分と認識してしまうリスクを抱えることになりはしないだろうか。

何らかの理由で、親と暮らせない子どもたちの「生きていていいのだろうか」という問い。こうした問いは、出自を知る、知らないに限らず湧き上がってくるのではないか。出自を知れば、なぜ暮らせないのか、実親と今後関わる可能性があるのではないか(関わってよいのだろうか)、などなど様々な葛藤を抱えることになる。

逆に出自を知るすべがなければ、自分は何者なのかという問いを抱えることになる。つまりどちらにしても、難しい問いを抱えながら生きていくことになる。そう考えると、重要なことは子ども自身が悩みながらも一歩一歩歩んでいける環境づくりだ。生きていける!という自己肯定のシャワーを浴びることが重要なわけで、ゆりかごがそのシャワーを浴びれるような出発点となるよう、これからも動向を見守りたい。