当事者の叫び

最近猫の目のように変わる天気。そしてそれに呼応するかのごとく、次から次へと体調を崩す息子たち。学校のイベントがひと段落して、校務との調整作業も落ち着いたかと思っていたので、ちょっとドタバタの毎日に消耗気味。



いろいろと書き物をしたり、調べ物をしたりしていて気になることもあるのだけどなかなか一気に書ききるエネルギーがないので、躊躇している。何かを書くときには、集中できる環境とまとまった時間が必要と同時にパッションや直感も必要なのだと思う。

最近、パッションを刺激された書物が2つある。1つは、谷口由希子さんの著書「児童養護施設の子どもたちの生活過程―子どもたちはなぜ排除状態から抜け出せないのか―」だ。児童養護施設を入所から退所までの局面を丹念に調べられた貴重な書だ。もう1つは石嶺剛さんの著書「私と出会った子ども達」だ。どちらも非常に読み応えのある本で、考えさせられる点がいくつもあった。



私がこの2冊を読んで刺激されたものがある。それは「当事者とは何か」ということである。ここ半年近くの状況を見ても、当事者とは何かと問われたことがあった。その1つは障害者自立支援法の改正を巡る動きだ。様々な当事者が知恵を出し合った骨格提言がことごとく後退した形で、行政府側が案を提示し、提言を出した人たちを先頭に様々な抗議や疑問が呈さられた何とも熱い闘争となっていた動き。

一連の動きでは、当事者が果たす政策立案への関与の在り方、意義を巡って、その課題が浮き彫りになったのではないだろうか。当事者の声をできる限り反映させるためには何が必要なのかという根本的な課題を、障害者側や支援者側に問いかけられたともいえる。

さて、子どもに関する政策立案についてはどうだろうか。最近では、児童養護をターゲットにした支援活動について、以前よりも私たちが報道で知る機会が増えた。また、それにより当事者同士の支えあいの活動にも、少しだけ注目が集まった。

こんな状況に、随分と時代は変わったものだとしみじみ思わざるを得ない自分。20年くらい前に果たして、「当事者参加が大事だよ」とか「当事者も入れて話し合おうよ」という声は余りにも小さかった。あくまでも、子どもは保護される存在、教育を受ける存在であり、自らの意見を表明したり、様々な表現の自由も与えられたりなどしなかった。しかし、劇的に当事者としての立場、権利が保障されたかといえば、現実は1ミリくらい前進したに過ぎないのではないか。


そもそも私は、当事者視点で「語られる」ことに、強烈な反感を持ってみていることが多い。当事者が当事者として主張を述べることに「正当性」や「妥当性」があるのかということを判断しようという意識を持っている。

特に当事者の中に様々な属性を抱えている人たちが内包した状態であったり、当事者という仮面が余りにもでかすぎる状態であったりするときには、例え同種の属性を抱えていたりしていたとしても、「本当にそれは当事者としての意見なのか。」と問いかけることにしている。概してそのような問いは、当事者として活動をしている人たちを困惑させることが多い。



大学生の時、私は障害学生支援に少し関わることになる。学習支援団体の研修に障害学生支援について盛り込んだり、大学側に施設の改善や抜本的な支援体制の改革を求めてきたりした。私の卒業後、様々な支援体制の拡充措置が取られ、関西でも有数の体制になっている。

しかし、障害学生支援に本格的に関わることにしたのは、大学2年の冬である。それまでは、当事者の学生の動きからは、近からず遠からずの立ち位置で眺めていた。当事者の動きというのは、新しく入ってきた人たちにとっては、いつの間にか周囲を巻き込みづらくしていることがある。問題がでかければでかいほど、結束力が高い。しかしその結束力が逆に壁をつくってしまっていることがある。そうした壁の外で、ある程度のフットワークが軽い状態で物事全体にアンテナを張っていると、なかなか有意義な意見をもらえることも多いし、届いていないであろう声との出会いもある。

そんなポジションには安住できない。当事者のメインストリームからは懐疑的な目で見られてしまうからだ。なぜか。「外野」の声は、メインストリームを励ますだけではなく、時に痛烈な批判もありうるからだ。そうした声をメインストリームに無理矢理合流させることは、様々な軋轢を生むことになる。軋轢を生まずに、良い方向にエネルギーを転換させるために、何ができるか、何をすべきかいろいろ試行錯誤したが、多くは空回りか失敗に終わった。当時の自分には、何の知恵もアイデアもなかったからだ。

また、当事者の「多様性」にもぶつかることが多かった。以前のブログでも述べたように記憶しているが、当事者が大学生活を送るには、様々なエネルギーを必要とする。それ故場合によっては、自らの障害を必要以上にオープンにしないという選択肢だってある。また、いわゆる「運動」そのものに関わることへの負担を訴える人もいる。できることなら、穏便にキャンパスライフを送りたい(でも必要な情報は欲しい)という声だ。

客観的に十分な学習環境を保障されていないことに変わりはない。それを変えていくには、大学にいる当事者を可能な限り巻き込むことが必要なのだけれど、なかなか一筋縄ではいかない。この当事者の多様性をそのまま放置していると、障害のある学生の間でも情報格差が生じ、孤立する障害学生が厳然として残ってしまうということになる。

ということもあって、当事者である障害学生の側からは「障害学生の数」や「実態」を把握するようにという要求が出されることがある。最近は発達障害を抱える学生さんの支援が大学にとっても悩ましい課題だけれども、その中でも実態の把握は最重要課題だ。まさに本人のプライバシーに直結するからだ。

もちろん、制度を変えてほしい、充実させてほしいという声はとても大事だ。一方で当事者のつながりがあってこそできる活動というものがあるのではないか。前述のように、「必要な情報は欲しい」一方で孤立する学生が多い状況を鑑みれば、もっとゆるやかなつながり、そして楽しいつながりをつくることが大切なのではないか。

当事者同士の中でも「多様性」に気づき、尊重するつながりつくりなくして、声やアイデアは浮かんでこない。つながりに楽しさや価値を見いだせなければ、つながりを強くすることもできないだろう。


少しメインの話題からそれてしまった。当事者の立ち位置、児童福祉の現場においてはどうなのだろう。子どもの入所系の福祉施設は、児童養護施設だけではない。情緒障害児短期治療施設、児童自立支援施設、肢体不自由児施設等などがある。児童養護施設にかなりの注目が集中し、民間の支援活動でも「児童養護施設に限定」した活動が多い。入所施設の成り立ちは様々だ。しかし、課題として抱えるものの中には共通した課題のものもある。また、障害の有無ということを除けば、状況は児童養護施設での暮らしとあまり変わらない下で、過ごしている子どももいる。

また、児童養護(社会的養護)の当事者の人たちの声も様々だ。当事者の人たちが安心して自らの思いを発信できる環境づくりが急務だ。今ようやく政策作りの現場に当事者の代表が参加するケースが出てきた。しかし、集団主義養護理論と家庭的養護理論の対立は、児童養護の当事者間でも起きている。様々な意見を持つ当事者がいる中で、どのように政策作りに反映するのか、当事者団体の代表を1人入れれば、当事者参加を実現したというわけではない。当事者団体にとっても、当事者としての語りを強要させられることは本意ではないだろう。


当事者の叫びをどう受け止めるべきか。福祉に関わる政策、実践においては、とても根源的な問いだ。