いじめとは何かを考え、明示することの意義

児童福祉論を教えていて、一番ショックだったことに今週遭遇することになった。どうしてだよ、なんでだよ、そんな思いを抱えながらの講義。今週は、大津でのいじめ問題がかなり話題になっており、講義を一部変更して、考える時間をつくってみた。やはり、みんないつも以上に、コメントカードにいろんな思いをぶつけてくれた。受講者の皆さんが、今後児童福祉に関わることになるかはわからないけど、思いを感じ、思いを表現することのしんどさ、それを乗り越えた時の価値、そうしたものをいつまでも持ち続けてほしい。


私の世代は、なぜか他の世代よりうるさい、騒がしいと言われることが多かったようだ。小学校、中学も高校も同じようなことを先生方が話をしていたのは記憶にある。いじめについては、80年代以降いろんな形で議論されてはきた。しかし、結局いじめとは何かという答えにたどり着くことのないまま、今日に至っているのではないだろうか。


子どもの遊びの延長と捉えてしまっては、結局いじめの実態を見過ごすことになる。子ども同士の争いに目を向けなければ、事態は一層深刻化する。教師だけでの力ではどうにもならなくなってしまう。しかし、一義的には教育機関の取り組みを見守るべきだという原則もある中で、結局は何がいじめなのか、きちんと明示しておくことが非常に需要なのではないだろうか。