壁を乗り越える

とあるニュース。今更かという思いもありつつ、何か違和感を覚える。決定的に足りない何かが。

障害ある子どもの入学制度見直しへ

中教審中央教育審議会は、身体などに一定の障害がある子どもは、原則、特別支援学校に入学するとした、現在の制度を見直し、子どもや保護者の意向を尊重して、一般の学校も選択できるようにすべきとした報告書をまとめました。

これは、23日開かれた中教審の総会で報告されたものです。
身体などに一定の障害がある子どもは、原則として地域の特別支援学校に入学することになっています。
しかし、障害がある人が一般の社会で自立して生活するための環境整備が求められるなか、報告書では「障害がある子どもも一般の子どもも、一緒に学ぶことが重要だ」としています。

NHKニュースより 一部抜粋)

障害のある人たちのまなぶ場所は、基本的に限定されるべきではないという考えを私は持っている。とはいえ、生きていくために必要な術を身につけるために、それを身につける場はなくてはならない。そのために今の教育の枠組み、教育内容について、大幅に見直しをすべきだと思っている。

その上で考えてみると、議論が足りない。何が足りないのか。

障害のある人とない人には大きな差異がある。その差異によって、なぜか社会的に受けられるサービスが異なっている。学校現場では、その差異は時として「いじめ」という形で現れることがある。場合によっては、障害のある子どものきょうだいも様々ないじめにあうことがある。

いじめが起きる原因は何だろうか。様々な理由があり、あるいは明確な理由が見当たらないこともあるかもしれない。しかし、いじめというものが学級内コミュニティにおけるヒエラルキーが生み出す差異に起因しているのだとすれば、今の教育体制、子育て文化の中で、障害のある子どもがない子どもと同じクラスで学ぶことができるのだろうかと不安に感じる。

差異を受け入れる、文字で書くと何だか簡単な感じがするが、実際はそうでもないようだ。昨年とある職場に障害者雇用の実態調査に入った時、そこで働く健常者の職員から「実際同じ職場では働きたくない、別の職場で働く分には構わないけれど。」という声が何気なく飛び出した時はショックだった。自分のかかわりのあるテリトリーには入ってくるな、ということなのだろう。
一方で、障害のある人がない人よりもスキルを身につけていると、健常者から「あれ?結構できるんだ」となぜかがっかりした思いのこもった発言をぶつけられることもある。


つまり障害のある子どもの教育を語るときには必ず、障害のない人たちをどう教育していくかという議論がセットでなされなければならない。長年にわたる特殊教育から、特別支援教育に至るまでの議論において、決定的に足りないのはそこだと思われる。そうした議論の積み重ねがないから、障害者制度改革も当事者の意見は、当事者だけの意見と骨抜きにされたのではないだろうか。教育は国の背骨。この国の教育のあり方が真に子ども個々の差異を包摂したものに変えていく、そのためには特別支援教育の語り方、議論の根っこを変える必要がある、と声を大にして言いたい。

こうした現状を変えたい、そう思って福祉を学ぶと決めたのに、まだまだ壁は厚い。果たして、現状を変える一歩になるだろうか。不安でいっぱいだが、学校って楽しい!!今日も学校に行こう!!と子どもたちが感じられるよう、願いたい。