「受け皿がないから、刑務所にいてください」判決に思うこと。

裁判員制度が始まってはや3年。量刑の判断にまで、民意や市民感覚なるものを反映することにいついて、様々な影響が考えられるだろうなとは思っていたし、実際量刑等で様々変化があった。
しかし今回、大阪地裁で行われた裁判員裁判では、司法の役割を大きく逸脱した、そして過剰ともいえる社会防衛的判決が出された。この判決が問いかけるものは何か、どんな影響が考えられるか、他人事とはとても思えないので、書き綴っておきたい。

まず事件の概要・地裁判決について、説明しておきたい。以下、毎日新聞産経新聞の記事を基に整理したい。

まず事件の概要について、毎日新聞の記事(一部抜粋)を見てみたい。

判決によれば、「大東被告は昨年の7月、被告の自宅を訪れた姉(当時46歳)を包丁で多数回突き刺し、出血性ショックによる低酸素虚血性脳症で死亡させた」とのこと。


毎日新聞 電子版 2012年7月30日)

次に産経新聞の記事から、判決理由をみてみよう。

河原俊也裁判長は、犯行の背景に広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響があったと認定した上で「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」として、検察側の懲役16年の求刑を上回る同20年を言い渡した。

河原裁判長は判決理由で「計画的で執(しつ)拗(よう)かつ残酷な犯行。アスペルガー症候群の影響は量刑上、大きく考慮すべきではない」と指摘。その上で「十分な反省がないまま社会に復帰すれば、同様の犯行に及ぶ心配がある。刑務所で内省を深めさせる必要がある」と述べ、殺人罪の有期刑上限が相当とした。


産経新聞 電子版 2012年7月30日)

まず刑務所で内省を深めさせることが必要とした部分について。事件の背景には、引きこもりでしんどい思いを抱えている人への支援の不十分さ、あるいは発達障害を抱える人への支援の不十分さがあるとはいえる。いみじくも判決が指摘したように発達障害のある人、家族への支援が十分にいきわたっていない。
とはいえ、検察の求刑を4年上回って刑務所に収容することで、どれほどの社会秩序の維持につながるのだろうか。そして、受け皿がないということ、それを持ってして、被告人の刑期を長くする、すなわち被告人の責任に帰することには、何らの妥当性はない。つまり、被告人の刑期が長くなることが、被告人にもたらす効果について、何の根拠も示されていない。ただ、長く服役させておけば、内省が深まるというのは余りにも短絡的である。

この判決は、明らかに障害者の権利条約に反している。条約に置いて、障害者を支援する責務は一義的には、国や社会に課している。また、本判決は同様に責務について記した障害者基本法第1条の「目的」、第3条の「地域社会等における共生等」及び第4条の「差別の禁止」に反しているともいえる。今回の判決は、そうした国や社会の責務について無視した判決であり、海外の障害者政策の潮流に真っ向から反するものである。


さて、この判決はいくつかのことを強烈に示唆したといえる。まず1つ目。未だに精神障害発達障害、知的障害のある人たちへの理解や支援が十分でないという点である。司法に、社会防衛のような役割を果たさせるようでは、ますますそうした支援策が前進することにはならないだろう。

2つ目。障害のある人たちが社会の構成員の一員であるという基本認識が、日本社会には未だ浸透していないという点。先日、障害のある子どもの小学校選びに関する方針が変わりそうだ、ということについてお伝えし、議論の根っこを見直すべきだと書いた。やはり今回の判決を見ても、幼少期からの教育の在り方を含めて、どうしたら国民全体、日本社会全体に障害者基本法の指す社会の実現に資するのか、具体的な取り組みを加速させる必要があると感じる。

3つ目。福祉専門職の養成の在り方である。私も養成に携わる1人として、この問題は避けて通れないと考えている。既存の制度とどうつなぐかだけでなく、真に必要な支援とは何かということを考え、時に自らの実践を批判的にとらえることができる専門家を養成していかなければならない。資格の高度化などを社会福祉士会などは推進しているが、専門職の役割とは何か、という観点から自らの役割を再定義、発信していく必要がある。

4つ目。福祉の社会観を早急に変えていく必要性があるということ。いわゆる福祉の援助や実践の多くは、既存の社会観を前提にしている。つまり、社会観が作り出した枠組みの中に障害のある人たちや家族を当てはめたり、つなげたりするものが援助や実践の中心であった。
しかし、社会観そのものの変革こそが、障害のある人たちが、その障害によって、社会的な不利益を受けることなく、楽しく生きていくためには必要だ。
しかし、そもそも福祉援助すなわちソーシャルワークの果たすべき役割は何であろうか、ということに立ち返ってみると、「枠組み」の中でのソーシャルワークであっては、真にその役割を果たすことに限界があると言わざるを得ない。

国際ソーシャルワーカー連盟が示している「ソーシャルワークの定義」(2000年)では、以下のようにその定義を示している。

 ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促していく。ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。

人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指すには、社会の変革を進める旨が書かれている。つまり、社会の変革無くして、福利の増進はないと示している。福利と書くと、何か難しいイメージを持たれるかもしれない。ということで、私は講義の中では「楽しく生きていくこと」とその言葉を解釈している。それに沿えば、楽しく生きていくためには、障害のある人たちが、障害によって社会的な不利益を受けることをなくす必要があり、それには社会変革が必要であるということになる。

では、その社会の何を変えることが必要なのだろうか。それを考えるに当たり、政権交代以降議論が始まった障害者制度改革に、「変えるべき何か」が如実に表れていたので、軽く振り返りたい。毎日新聞の2月12日付の社説。タイトルは「新障害者制度 凍土の中に芽を見よう」である。またそのおよそ半年前(2011年8月2日)には、毎日新聞は社説の中で「 障害者側の不満もわかるが、国民全体が寄せた税金をどう使うかは「私たち(障害者)」だけで決められるわけではない。」と主張した。

国民全体の中に、障害のある人たちは含まれていないのではないだろうか。そしてそもそも様々な制度やインフラも含め常に健常者基準、健常者仕様ではなかったのか。毎日新聞は社説において、健常者に対する疑問はほとんど示さず、当事者中心の議論そのものを一方的に指摘した。

しかし、この制度改革の議論は、非常に画期的なものだったと私は評価している。制度改革を巡って様々な当事者が立場を超え、骨格提言をまとめたからだ。しかしものの見事に、厚生労働省は骨格提言に対し、ゼロ回答。関係者の必死の巻き返しもあったが、結局、自立支援法は「改正」という形で遺伝子が受け継がれることになった。その理由は諸々示されたようだが、これまでの障害者福祉政策の根幹をも変える制度の抜本改正には、「非関係者」の理解をどのように得るかということが、非常に重要であることを痛感した。

障害者福祉制度は、障害のある人たちが様々な支援を活用しながら、社会の構成員の一員として、主体的かつマイペースに暮らしていくことができるようにするために存在している。一方、障害のない人たちにとっては、個人としてはその制度を利用することはない。そうした「非関係者」の人たちの理解を得るには、制度の維持にかかる財政的負担をどこまで担ってもらうかがカギとなる。

既存の社会観では、制度の本来の存在意義を具現化するのは難しいだろう。視点を変えてみよう。障害のない多くの人は、障害ゆえの社会的不利益を受けることはない。但し「多く」はと記したのは、障害のある人の家族については、多くの負担、不利益をまた受けることがあるからである。
障害ゆえの社会的不利益。言い換えれば、アマルティア・センが示した「ケイバビリティ」の格差であろう。

ケイバビリティは、日本語訳としては「潜在能力」とされることが多いが、牧野広義は「現代倫理と民主主義(2007年)」の中で、能力の構成要件や能力の可視性について、誤解を生む可能性を指摘している。私もその指摘に全面的に賛成なので、カタカナ表記にする。

既存の社会観を基盤とした政策では、健常者と障害者の間のケイバビリティの格差は是正されることはない。基盤となっている社会観こそ、変えていく必要がある。

社会福祉実践は、日々の暮らしの中の様々な人間関係、社会との関係で発生する問題を解決したり調整したりする過程である。日常の積み重ねの中で、そのソーシャルワークの本来の役割、意義が埋没するということもある。そうすると、援助の1ステップに、焦点が集まってしまい、それをいかにこなすかということに目が行きがちになる。それが結果として、日常をどう回すかということに追われることになる。逆に言うと、既存の社会観の転換なしに支援をするといっても、あるいは傾聴するといっても、意味をあまり持たないものになってしまう。


福祉のフィールドで、発達障害、知的障害のある子どもたちが楽しく過ごせるよう、様々な支援事業を行ってきた私としては、今回の判決の報に接し、無力感や敗北感のようなものに包まれた。また、居場所づくりを通じて、様々な属性の若者、子どもたちが共に育ちあう場をつくることに全力を傾けてきた思いがある。自分たちがやってきた実践そのものも、問い直す時期に来ているかもしれない。しかし、今回の判決や社会防衛思想に抗するために、何をすぐにしなくてはならないのか、手探りで進めなくてはいけないことに、もどかしさも感じるし、焦燥感もある。現場で共に働くスタッフからは、「これ以上何をすればいいのか、見えない」という声も上がった。

しかし、今回の件については黙って見過ごすわけにはいかない。まして有効な解や圧力への対抗策を示すことができないからといって、声を殺してしまうわけにいかなかった。声をあげ続けなければ、なかったことにされる。諒解したものと解される。それでは苦しみをさらに抱える人が増えるかもしれない、楽しく生きられなくなる人が増えるかもしれない。それが容易に想定されるわけで、それを見過ごすわけにはいかない。


(備考)
後半の4つ目のくだり。雑に書きすぎたので、大幅に修正。(2012 08 01)