施設で暮らす子どもたちにとっての「療育」

暑い日が続きますね。ロンドンオリンピックもあり、私も少々寝不足ですw 選手のインタビューを聞いていると、オリンピックで勝つことを至上命題のように課せられていて、そのプレッシャーとも闘わねばいけないことがいかに大変か、思いをはせずにはいられません。

さて、今日は障害のある子どもにとっての療育とは何か、ということを綴りたいと思います。先日、久々に施設で共に育った友人も交えて、マシンガントークをぶちかます機会がありました。いつものように昔話を交えながら、わいわいしまくったら、BARのお兄さんたちに、「小学生よりわいわいしてるね」と言われましたw そんな冷やかしにもめげずに話し続けた中で、もうすぐ夏ということで、実習生を迎え入れる時期だねという話になったのですが、その友人曰く、最近の実習生は「やさしすぎる」とのこと。よくよく聞いてみると、実習生側の認識と施設で暮らす子どもたちの間の認識のズレがあるのではないか、ということになりました。少し長くなりますが、綴っておきたいと思います。

社会福祉士精神保健福祉士介護福祉士、あるいは医師、作業療法士理学療法士言語療法士、そして保育士等の「士」業を目指される方は夏場から秋にかけて、見学実習や現場実習に励まれる方もかなりいらっしゃるのではないでしょうか。実習は長期戦なので、体調を崩されないよう気をつけて乗り切ってほしいと思います。では実習で学ぶ意味は何かあるのでしょうか。
以前、このブログで実習の意味、意義について綴りました。実習のカリキュラム上の位置づけ、目的は職種によって違います。しかし、これら職種に共通するのは、多くの実習を資格取得に当たって必要とされている点です。
私が以前暮らしていた障害のある子どもの入所施設でも、上記の士業の実習は行われます。医師や作業療法士理学療法士言語療法士は、医療施設としての実習ということになります。(肢体不自由児施設の場合、医療法に基づく病院としての機能を併せ持っている施設もあります。)実習という場を通して、実習生同士が他校はもちろん、他職種連携の意義を理解できるようになれば、実習の意義ももっと付加価値が高まるのではないかと考えます。実際はたまたま同じ期間に当たっているからできる「偶然の産物」にすぎないのが現実です。また実習というものが、自分たちにとってどういう位置にあるのか、その点について意見交換できれば、有意義なのではないかなと思います。

ところで、実習をするにあたって、できれば事前に理解を深めておいてほしいことがあります。実習生からみれば実習施設つまり施設なのですが、利用者にとっては暮らしの場です。その違いについて理解しておくことが、実習においては最低限必要なことです。
肢体不自由児施設や重度心身障害児施設では、訓練やリハビリテーションという時間もあり、その目的を達成するために施設が存在します。一方で、利用者である子どもたちにとっては、生活の時間の大半を施設で過ごすことになります。私が入所していたころは、帰省、つまり自宅に帰れる回数は年2回ないしは3回で、各期間も1週間程度でした。最近では毎週あるいは隔週で自宅に帰省するというように変わってきているところもあります。
私が暮らしていた肢体不自由児施設では、外出するのにも全く自由ありませんでした。ふらりと近所におでかけなんてできるわけがありませんw その代わりに親が1か月ないしは2か月に1回面会というものがありました。多くの子どもたちにとっては、面会の時間にゲームができたり、親子でキャッチボールができたりする、非常に貴重な時間となっています。開放型拘禁施設と何が違うのだろうか、今になって当時のことを振り返ると、施設で暮らしていたことによって奪われたものも、結構多いなと率直に思います。今はその施設でも帰宅の回数が増えるなど、「時代に即したケア」に努めているようだけれども、家のある子どもにとって、施設で暮らすとは家とは全く違う暮らしを障害ゆえに強いられているという点を指摘しなくてはなりません。
入所系の障害児施設で実習を終えた学生さんと話していると、親と離れて暮らして偉いね、悲しそうではなくて、逆に元気いっぱいでびっくりしたなどという声も聞かれます。子どもたちのために何ができるのだろうか、もっと違うケアのあり方があるのではないか、そうした声は余り聞かれません。

当事者の側は、どんな思いを抱いているのでしょうか。近年肢体不自由児施設では、入所する子どもたちの障害の重度化、重複化が顕著になりつつあります。正確に言うと、障害のある子どもの中でも、軽度・中程度の子どもたちは在宅のまま生活をしているので、重度の子どもたちが、より高度で専門的ケアの必要性もあり、入所傾向は尚続いているということでしょうか。そういう状況下にあって、施設とはどういう存在であるべきなのかという問いにも変化が表れてきているのではないか、そんな思いを抱かずにはいられません。

障害のある子どもの福祉や医療を学ぶにあたり、欠かせない概念があります。「療育」という言葉です。障害のある子どもにとって、「療育」は切り離せない存在でした。今でもそうかもしれません。療育にも北風ビュービューな療育と太陽ぽかぽかな療育とがあります。(ざっくりしすぎですが。)療育の主体によって、そのイメージや内容も異なります。北風路線の療育が周流だった時代においては、早期発見・早期治療の掛け声の下、「健常者に追いつく」ために「健常者以上の努力」を強要するかのごとく、厳しい療育が行われてきました。私より上の世代の肢体不自由の障害のある方に聞くと、障害があるのだから努力することは当然だと職員に言われることが度々あったと言います。
しかし、発達障害という言葉がそれなりに聞こえるようになってきた頃から、療育が「太陽路線」へと変更されていきます。個の尊重が叫ばれ、療育そのものに対する保護者の不安を払しょくするためにも、療育へのイメージアップが図られてきた、その結果が太陽路線に収斂されていきているのでしょう。しかし、療育そのものの役割について、総括なしにいわば延命が図られているともいえます。
そして、療育を受ける当の子どもたちにとって、療育の時間が「楽しい時間」にすり替わっていきます。厳しい言い方をすれば、楽しみを利用して子どもたちを療育に引き込もうとしている、となるのでしょうか。結局太陽路線の療育も表面をうまくメイクしただけでその価値や本質、さらにはその存在意義についての議論は深まっていない、そう指摘しなくてはなりません。そもそも療育を受けることが当然であるかの議論には、私は強い疑問を感じています。

肢体不自由児療育の父とも言われる高木憲次は、療育の概念について次のように述べています。

「現代の科学を総動員して不自由な肢体をできるだけ克服し、それによって幸いにも恢復したる恢復能力と残存せる能力と代償能力の三者の総和(これを復活能力と呼称したい)であるところの復活能力をできるだけ有効に活用させ、以って自活の途の立つように育成することである」

「療育の根本理念」『療育』第1巻 第1号 田波幸男 編 1967『高木憲次 -人と業績-』日本肢体不自由児協会 所収 より

この高木の示した概念は、社会的自立に向けたチームアプローチを療育という概念で提唱したものではありますが、対象者を限定しており児童福祉法の目指す理念とは矛盾しています。また「平成11年―13年度厚生科学研究報告(分担研究者:北原佶)」において、歩行開始時期や歩行獲得率は、早期発見・早期療育が提唱される以前の国内外の文献と差はなかった旨が報告されています。

療育そのものへの批判がなされ、その中で明確になりつつある課題に今の療育は答えているでしょうか。療育という概念は、あくまで障害を抱える個人に対してのアプローチであり、その問題の発見・治療を時に絶対視するリスクを抱えながら行われてきました。また療育はあくまでの個人に対してのアプローチであり、地域や障害のない人たちへのアプローチではありません。これは、障害児教育、特別支援教育にも言えることですが・・・。太陽路線になり、アプローチの仕方は変わりました。対象も家族へと広がりましたが、当事者以外の人たちへのアプローチは、ほとんど示されずにいます。

私が、療育に対して批判的な主張をするのには、療育至上主義とも言えるような施設で暮らしていたからであると明確にしておきます。普通の暮らしが見えない中で、施設を出て、施設生活で得ることができなかった、獲得できなかったものがあると痛感しています。療育の良い効果はどこまであったのか、それは正直わかりません。しかし施設で暮らして得たものもありますが、だからといって「普通の子ども期」にできたであろう、関心をもったであろうことがそれらをできなかったことと等価ではありません。施設生活で得たものがあるから、施設には存在価値があるとも完全には思えません。根本的に施設でのケアのありかたを見直さなくてはいけない、いかに子ども期を豊かに過ごすことができるか、その中で将来の暮らしも見据え、医療的ケア、療育的なアプローチを組み込んでいく、そういうあり方を模索していくべき時期に来ています。

医師を始め社会福祉士ソーシャルワーカー)、看護師、作業療法士理学療法士の皆さんにとっては、療育を行う施設かも知れません。しかし、利用する子どもたちにとって施設は暮らしの場、育ちの場です。療育を受けることが大半の時間を費やし「ガマン」を強いることになるのであれば、それが果たして豊かな子ども期、言い換えれば子どもの最善の利益につながるのか、ということは、もう一度問い直してほしいと思います。実習で問われるのは、どんな援助ができるかだけでなく、自らの存在意義そのものなのかもしれませんね。