歳を重ねる前に決意表明を。

 今年もまた1つ歳を積み重ねることができた。最近あまり健康に留意はできていないけど、あっという間に重ねる日々の中で、少なからずやりたいことに取り組めていることに、そしてそれを支えて下さる方に心から感謝したい。
 
 
 大学の教員になり、生活にバタバタした感じは増えたが、学生さんや研究・実習で一緒に係わって下さる方との出会いも増えた。知的好奇心をくすぐられることも増えたため、楽しく過ごすことができている。
 一方、家庭生活の方はというとジェットコースターのような過ごし方である。仕事で外出する機会も増えるわけで、やはり子どもたちとの濃密な時間がかなり減ってしまっている。とはいえ、それを理由に家事をおろそかにするわけにもいかないわけで、時間のやりくりをしながら、なんとか日々頑張っている状況である。
 もう1つの大切なNPOの仕事。日々楽しいメンバーとともに、様々な課題に取り組むことができている。もちろん復興支援や障害児デイなど困難にぶつかることも多いけれども、しかし、しっかり議論し実践しそして協働する、そのサイクルができているなと実感した。
ここ最近、いじめ自殺の問題、虐待の問題、施設養護をめぐる様々な問題が起きている。対応が難しい課題が多く、四苦八苦し力不足を痛感するケースだってあった。しかし、問題解決に向けて歩みを止めるわけにはいかない。その意思を日々確認し合えていることは、大きな自信になっている。


 次の1年。考えたいこと、やりたいこと、続けたいことを整理しつつ、最大の関心事について綴っておきたい。
まず1つ目。シングルパパをめぐる様々な課題を解決するために動きを強めたい。シングルパパをめぐる様々な課題については、所属するNPOで企画されている様々な交流プログラムを通じて、ぼんやりとだが浮かび上がってきている。最大の課題は「シングルパパの孤立」である。ある調査では、シングルママよりシングルパパが子どもの福祉サービス・保育サービスに関する認知度が低いという結果が出ている。その原因の1つには、仕事の忙しさのみならず、家事の中での地域とのつながりが乏しいことにあるのではないかと考えている。
 交流プログラムを定期化、継続させることによりパパ同士が気軽に情報交換も含めて、コミュニケーションができるようにしたいと考えている。逆にスポット的なイベントはもっとパンチの利いた楽しいポログラムにしていきたいなと考えている。
 シングルパパの課題については、当ブログでも取り上げたが所得保障の問題もある。この問題の中でも中核的な課題の1つであった遺族年金問題は、全父子連さんなどの粘り強い要請行動の甲斐あって、大きく解決に向けて前進した。今後は、シングルパパが働きながらも子育てしやすい環境を整備することによって、それが所得保障に結びつくようにしていければいいなと考えている。
 
 
 次に、施設養護をめぐる問題について、多様な当事者の存在をもっともっと伝えていきたいと考えている。とかく施設養護あるいは社会的養護の問題は、「児童養護施設」をめぐる問題に集約されてしまった感がある。確かに児童系の入所施設の中では人数も多い。そして地域の人々も、施設に対するイメージの長年に渡る社会的な構築によって、他の入所施設よりは、目が向きやすい。
 しかし今日議論されている社会的養護をめぐる課題は、他の施設であっても、課題として共有されるべきものがほとんどである。例えば、施設退所後の進路問題とくに進学については、障害のある子どもにとっても大きな課題である。しかし、NPOでやられているとても優れた進学支援に関するプログラムを、肢体不自由児施設に入所する若者が利用できないというケースもある。
 虐待の問題もあるいは施設内暴力の問題も、退所後の居場所の問題も施設種別の枠を超えて存在している課題である。しかし行政の支援策も、あるいは民間・NPOでやられているプログラムも施設種別を限定していたりする。せっかく既存の資源やノウハウで対応できるにも関わらず、活用できない現状を変えていくために仲間とともに行動する。
 
 
もう1つ施設養護をめぐる課題。施設出身者の人たちが喜怒哀楽を分かち合うことができる空間を今後も続けていく。高校卒業以降、当事者グループの立ち上げに参加させてもらい、その後、定例で勉強会や遊んだり、学んだりするプログラムなどをやっている。日向ぼっこさんとは違ってクローズドなグループなのだが、なぜだか参加者は増え続けていて(前回の定例勉強会には42人、過去最高人数だった)、そろそろ法人化した方がいいのかな、という声をも挙がっている。
 活動の形態は優秀なメンバーさんたちにお任せするとして、今後は少しずつ発信の機会も増やしたいなと考えている。支援する人たち、街の人たちに施設が抱えている課題、退所後の課題について、分かち合えればいいなと考えている。愛知学園事件以降も、施設では様々な暴行・虐待・権利侵害の問題が起きている。そうした課題を解決する為には、もっと施設にいる若者たちの「ありのままの声」を発信し、情報を共有する場がほしい。
 施設で暮らす子どもたちが権利主張をすると今もなお、それを公然と否定する支援者がいる(そういう人は支援者とは呼びたくもないが。)。施設で暮らそうがどこで暮らそうが、子どもたちは自分たちらしく楽しく日々を過ごし、幸せについてそれを希求することは当然のことだ。それを子どもは半人前などと言って軽く見たり、権利を履行させてやっているかのように仕向けたりするのは、支援者が果たす役割とはとてもいえない。
 そうした納得がいかないこと、我慢できないこと、疑問に感じることだけでなく前向きなことも含め分かち合う場を続けていきたい。


児童自立支援施設をめぐる課題にも取り組みたい。今年も「厳罰化」の流れは止まらず、法制審議会に刑期の延長が諮問されている。今までの厳罰化の流れを総括すらせず、突き進むのはいかがなものか。被害者の方、そのご家族が抱える思い、あるいは世間に漂う処罰感情、そうしたものに配慮しているのだとしたら、結局は臭いものにはフタをしてしまえ、という構造ができあがり、真なる社会秩序の構築や少年の円滑な社会復帰に悪影響を及ぼすことになる。
そうした中、開放型拘禁施設である児童自立支援施設はどんな役割を果たすべきなのだろうか。施設自体の存在意義がここ数年問われ続けているにも関わらず、はっきり言って有効な策が講じられているとは言えない。処遇呼ばれるソーシャルワーク実践の中身も、旧態依然としたものが目立ち、明らかに子どもの権利条約に真っ向から反する規則もあるが、何ら対応しようという動きが見えない。
とりわけこのブログでも触れた服装の関する規則は、すぐにでも改善していく必要と価値があると考える。つまり、服装規制を改善することによって、数少ない表現の自由を保障することにより、子ども自身のアイデンティティを尊重する1つの有効な方策だからだ。子どもたちの尊厳を大切にすることなしに、効果的なソーシャルワーク(処遇)が期待できない。児童自立支援施設が「枠のある生活」に形容されるような独自の実践をきちっと見直していかなくては、子どもたちが抱える苦しみやしんどさ、家族・友人との葛藤、地域との軋轢、社会への不満等を受け止めることができないだろう。
児童自立支援施設での処遇にあまり変化が見られないのは、施設出身者からの発信が乏しいという事情もある。なかなか声を聞く機会が持たれずに今日にまで至っているし、児童自立支援施設を対象にした当事者団体はほとんど聞いたことない。ということは、行政側もなかなか声を拾い上げるチャンネルを持っていないということだ。
ここ5年の間で、前述の当事者グループにも、児童自立支援施設出身者の方が参加してくれている。正直今まではアウェーな感じもあった私としては、とても心強いし、感謝の気持ちでいっぱいだ。今後も、児童自立支援施設が抱える処遇の問題や退所後の暮らしのことなどを中心に思いを分かち合いたい。そして息の長い取り組みにすることよって、児童自立支援施設での暮らす若者たちが少しでもチャンスが掴みとれるような、そして安心できる居場所として機能できるようにしていければと考えている。


 東日本大震災から1年と半年。支援活動にも様々な模索がみられる中で、何をすべきだろうかと我々のNPOも思案している。地域の人と一緒に、地域を盛り上げ、ともに歩んでいきたい。NPOとして事業展開の継続を決めた時に新たに掲げた「信念」である。しかし、復興支援の活動については率直に言うと難局に直面している。コミュニティカフェを起点に支援を進めているが、東北以外の地域との温度差が出始めており、その温度差を乗り越える仕掛けが必要になっている。でも続けたい。東北という大地と人と空気を未来につないでいくためにも。

 最後にもう1つ。LGBTをめぐる問題だ。先日カナダに調査に行き、バンクーバーなどで様々なLGBT向けの支援プログラムを運営している組織に伺った。隣の芝生は青く見えるではないけれど、そこで活動している若者たちは実にいきいきとしていた。日本では行政からAIDSの対策の延長線上として、LGBTへのアプローチが行われている。しかしカナダでは、ライフサイクルを見通した支援プログラムが民間から提供されている。単なるAIDS予防の対象としてのLGBTというだけでは、AIDS対策自体も十分な効果を得ることは難しい、プログラムを運営しているセンターのスタッフが話していた。
 日本ではあまり注目されていないが、LGBTの若者世代の自殺は、米国などでは大きく取り上げられたりもしている。年間の自殺者数3万人を上回る日本としても、重要な課題として認識されてほしい。

 いろいろ書き綴ってきた。やりたいこといっぱいあるな。とはいえ、大切にしたいことは大切にしたいなと思う。その中でも「共に生きる」ということは大切にしたいと考えている。
 最近、共に生きるって難しいな。つくづく感じる。よく耳にすることだけれども、一人では生きられない。生きているように見えても、様々な社会の仕組みがあってこそ成り立っている。もちろんぶつかりあうこともあるのだけれど、しかし、困ったときに、しんどいときに助け合える社会を作っていきたい。
 共に生きている家族も大切な存在。自分にとって子ども・若者期は家族なき時代だった。(こんなこと書いたら里親に怒られそうだが・・・。)家族を知らないがゆえに、家族への不安・怖れもあった。子どもが生まれ、子どもが育つ姿を見るにつけ、家族の意味をちょっとだけ知ることができた。できればこれからも温かく、子どもたちの成長を見守りたい。
 この1年もいろんな人に支えてもらった。笑顔に助けられた。温かいまなざしに勇気がわいた。問題が起きるとあたふたしがちな私に目を向け、心を配り、手を差し伸べて下さった人たちがいた。
 そうした人たちがいて歳月を積み重ねている。改めて人と人とのつながりの意味を知ると同時に、いじめや自殺あるいは虐待の問題が報じられるたびに、つながりの難しさも思い知らされている。
 自分自身の弱さや苦さを思い知らされる。ときにこのまま一人になりたい、心配をかけたくないから・・・などと思うこともある。どうしたらいいのだろう、その問いには今も答えは出せないけど、模索の道は続くだろうけどできれば、気楽に次の1年も過ごせたらいいなと思っている。


 なんだか締りのないまとめになったが、とにかく次の1年、楽しく生きたいと思う。よろしくお願い致します。