「児童自立支援施設」試論 その2

 服装・髪型規制に妥当性を裏付ける明確な根拠はない。前回の試論では、そのように結論づけた。これに関し、施設関係者の方、施設出身者の方あるいは福祉に関心をお持ちの方から意見を頂戴した。意見があることは承知で書いたつもりではあったが、多様なご意見を改めて伺い、今一度児童自立支援施設で暮らすことの意味について、整理したいと考えるに至った。
 児童自立支援施設は当然のことながら、児童・若者から設置要求があって作られたものではない。そうした背景もあって、施設が「暮らしの場」であるという認識が、施設職員の側に共有されていないことに、強烈な違和感を持っている。暮らしの場としての施設を考える際に、施設のルールを考えることは必須であろう。今回はルールや枠について、様々な観点から考えてみたい。


 児童自立支援施設におけるルールについては、入所時に説明が入所者に対して行われる。しかし、多くの施設において、ルールに関する異議を申し立てる、あるいは抗議する又は改正を行うための具体的な方法が施設利用者には、説明がなされていない。
 なぜ施設側が決めたルールについて、抵抗する手段を施設入所者に明示しないのか。その理由の一端は、施設のルール・決まりごとが、「処遇」と密接に関係していることにあると考える。そもそも処遇とは施設職員が施設入所者に対して行う様々な指導のことを指している。その指導の中には、入所者個別への指導もあれば、集団を介した処遇もある。その集団処遇の根幹をなす施設のルールや決まりを緩和し、個別的処遇を強化すれば、施設入所者の問題行動に対しての様々な治療や処遇の効果が薄れるという懸念が施設職員側から提起されるだろう。


 施設入所者には苦情申し立ての制度があり、ルールについて意見があるのならば、それを活用すればよいという意見もあろう。しかし、この苦情申立制度では、ルールに抵抗しうる十分な手段とは言えないと考えている。つまり、ルールに対して不満を持った利用者が申立制度を利用したとしても、あくまでも個人の申し立てであり、個人の主観(感じ方・捉え方)の問題として処理される可能性が十分に想定されるからだ。前述のように「集団」を対象にしたルールの場合は、それを適用される施設入所者側の抵抗手段も、集団単位での手段が取りうるようにすることが望ましい。そうすれば、ルールの是非について、個人の意思の問題という観点から、施設という空間を共有する集団にとっての問題という観点に変わる。
 しかし、集団単位での抵抗手段を提示することには、施設職員は重大な懸念を示す可能性が高い。施設入所者同士が団結することは、相対的に施設職員と施設入所者の関係の非対称性が縮小することを意味する。集団処遇と個別処遇を使い分けながら、施設入所者との関係構築をしてきた職員にしてみれば、それにより職員と入所者の関係構築に支障が出ることは避けたいと考えるのは、現状、職員としては自然な考えだろう。

 自分(利用者)に対する処遇がどこで、どのように決められているのかということに対する不安は、施設で暮らす若者にとっては今なお有している。その不安に対し、若者は若者なりの措置をとり、不安から身を守っている。例えば、施設にいる間は、とにかく職員から指導を受けるような行動は抑制する、あるいは模範を装うことをするといった方法だ。施設職員側が問題視する行動をとらなければ、支援計画は一見順調に進捗する。しかし、施設退所後、様々な問題に再び取り囲まれてしまい、再び何らかの児童福祉サービスや少年司法の対象になってしまうケースがある。
愛知学園で起きた職員への暴行事案でも、きっかけは入所者に対する処遇への不満・不安であった。処遇に対し、相互の意思疎通が図られなければ、結果として入所者の立ち直りにも影響を及ぼすことになる。


 児童自立支援施設、多くの方にとっては耳慣れない施設である。近年の非行に関する報道で耳にする程度で、実際どんな処遇がなされているのかということは、地域の方々にも認識されているとは言えない。前回の試論でも触れたが、教護院から児童自立支援施設に名称が変わり、設置目的等も変更されたが、実践そのものを根本から問い直すという作業は見られなかった。今もって尚、教護院の実践を引きずっているのではないだろうか。


 次に前回の試論でも触れた、「枠」という独特な児童自立支援施設の実践とその妥当性について考えてみたい。
 児童自立支援施設には様々なルールがある。ときにこのルールのことを児童自立支援施設の処遇の特性と絡めて、「枠」と呼ばれることがある。児童自立支援施設は「枠」という形で、様々な自由の制限を入所者に課している。その制限の是非については、枠ごとに検討の必要があるだろう。とはいえ、全ての「枠」が何のために存在しているのかということについて、枠が職員の実践に与える影響だけでなく、利用者の暮らし、権利保障、退所後の暮らしに与える影響も勘案して当然議論されるべきだろう。とはいえ、「当事者」である利用者側に与える影響を発信する重要な存在となりうる、当事者団体は、養護施設については活動が活発に行われているが、私が知る限り児童自立支援施設には団体組織がない。当事者の視点で忌憚なく意見を発信できる状況下ではない。だからこそ、処遇への当事者参加は重要なのだが、どこまで、職員側に受け入れられるかはわからない。むしろ大きな否定圧力がかかるだろうとも予想される。

 様々なルールの中で、服装・髪型の規制もその1つである。施設が一方的にその規制をすることはかえって、処遇の効果を失わせるのではないかと指摘した。この点については、服装・髪型について、施設入所者が入所前に所属していた「好ましくない文化」の現れの1つであり、児童の抱える問題が、その「文化」に起因していることからも規制が必要ではないかとする批判も児童福祉施設職員のメンタルヘルスを研究するS先生から頂いた。
 確かに、児童にとってそれまで所属していた文化に適合する為に、服装や髪型等を適合させているのだとしたら、それは児童にとって、自分自身を守るため、文化との同化をアピールするために行われており、その固い守りをはがすことによって、自分らしさを解放する必要があるとも考えられる。
 しかし、服装や髪型は単に自分のことを守るための盾という役割だけではない。施設職員にとって、好ましくない文化の表れだとしても、服装や髪型は、児童にとって大切な表現の一部である。ルールという形で、画一的かつ一方的に規制することは、表現の自由を否定することであるので、適切とはとてもいえない。少なくとも、施設という隔離された空間にいる間は、好ましくない文化に接する機会は格段に減るわけで、前述のような文化との同化としての服装・髪型についても、児童自身の気づきを粘り強く促すことこそ必要な手段なのではないか。
 施設を出れば、多様なファッションであふれている。どんな服装や髪型が好ましくないのかということは、状況やあるいは判断する人の主観に左右される問題である。例えば、髪の色を規制する場合、施設の中で禁止されていて、施設の外ではとがめられることはない場合、どのような客観的かつ児童が納得しうる根拠に基づいてやるのだろうか。根拠を示すことは容易ではないだろう。
 施設は暮らしの場である。日々の暮らしには四季があり、様々な人間関係の中で、暮らしが営まれている。服装などのファッションもその暮らしを形成する大切なピースである。児童が児童の意思で暮らしを築くことができるよう、施設の処遇のみならず、運営の在り方そのものにまで踏み込んで、変革をする必要があると私は考えている。また、服装や髪型に、抱える問題の一端が表れている子どもたちだけが、施設で暮らしているわけではない。そうした子どもたちにとって、数々の「枠」の中で窮屈な暮らしを強いられており、服装や髪型の自由はまず保障してもよいのではないだろうか。
 もう1つ服装・髪型の規制に関して、指摘しておきたい。児童が施設職員にとって、好ましくない服装や髪型だったとして、あの子は問題を抱えているのではないか、あるいは問題児だとラベリングすることは問題ではないか。つまり、外見によって、人を判断したり、先入観を持ってしまうことを容認することになるのではないか。確かに、施設を出れば、外見で判断する人も少なからずいる。人々のファッションについて、個人が感想を持つこともまた自由である。
 しかし、福祉実践において個人の感想を当事者に押しつけることは容認されるべきではないと考える。社会の流れや大勢に適応するように、支援することだけが施設の、あるいは福祉の役割ではない。あくまで、施設は入所者個人と地域社会や家族との関係調整が主たる目的であり、社会からの要求を一方的に利用者に受け入れさせることだけを目的とすることは、実は児童が抱えている問題の解決すら、阻害するリスクすら持っている。


 児童自立支援施設とは利用する若者にとってどういう存在なのだろうか。そこで時間を費やしたことは、その後の生活にどんな影響を与えたのだろうか。2年にわたり、児童自立支援施設出身の若者のインタビュー調査等を行ってきて、そして私自身の経験からも、これについては、現在、大きな疑問として持っている。
その疑問を考えるに当たり前回の試論で触れなかった、児童自立支援施設の特徴・設置目的等についてごく簡単に紹介したい。(児童自立支援施設の特徴は、厚生労働省が行っている「児童養護施設入所児童等調査」で大まかなことはわかるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。)平成19年度の調査での主な特徴をかいつまんでみてみると、男子の入所比率の高さ、養護問題を抱える児童が相当数いること、障害のある児童も相当数いることだ。また入所児童への調査の中では、大学等への進学を希望している児童も70%を超えること、家庭復帰を望む児童は年齢が上がるにつれて、下がる傾向にあることが興味深い。
 

 そんな特徴のある児童自立支援施設。みなさんはどんな印象を持たれているだろうか。聞いたことがないという方も多いだろう。あるいは教護院という言葉は耳にしたことがある方がいるかもしれない。現在出身者を対象に行っているインタビューでも、入所前のイメージとして「少年院よりはマシで、養護施設よりはキツイ」そんな印象を持っている出身者もいた。実際入所前にそのような説明を受けた人も少なからずいた。
 さて、児童自立支援施設出身だということをカミングアウトすると、社会ではかなり評価が下がってしまう。そうしたこともあって、入所していたことを敢えて明らかにしない人が多い。ということもあって、当事者の声は、拡散されにくい状況にある。
 施設での暮らしが、その後に生活にプラスになった面、あるいはマイナスになった面を早急に明らかにして、児童自立支援施設や教護院の実践の意義そのものの問い直しをしたいと考えている。施設職員や役所の都合だけで、施設の営みがあるわけではない。そこには必ず、当事者である若者、児童がいて暮らしている。彼らのありのままの声なしに、施設生活が語られることは避けなければならない。それは入所者の生活に密着する処遇や「枠」についても同じである。
 施設は子どもたちへの思いがさわやかに吹きわたる施設であってほしい。そのために、施設は何のためにあるのか、実践や援助技術は何のためにあるのか。当事者からの声で生まれた施設ではないからこそ、日々の問い直しが求められるのではないだろうか。