大学不認可の件。

 この件、なんだか「大臣としての資質」の問題と見る主張もあるようだけど、ひとつの見識だと、私は考える。まして問責などということにはあたらない。Twitterなどを眺めていると、あの田中大臣の「気まぐれ」だとみる人もいて、こういうことを言っているから、大学改革も教育改革も進まないのだと感じる。大臣としての判断(政策)として正しいのかどうなのか、という視点から冷静に考えるべきことなのではないだろうか。

 2つ考えるポイントがあると思うので、以下列挙。

(1)第1志望として新設大学を考えていた受験生への対応
 今回の3大学の中でも短大を大学に、あるいは専門学校を大学として開学するパターンだ。かつ看護、教育や美術など特性を明確にもっている。ということもあって、受験や編入を考えていた学生さんも少なくないだろう。そうした受験生もいることを承知で、尚且つ受験を間近に控えた11月にこの決断を行うことが適切だったのだろうか。
 

(2)失業の危機にある就任予定の教員への対応
 新設の大学を開設するにあたっては、大学の教員の確保を当然必須の課題である。大学設置・学校法人審議会に申請を出す段階で、「この大学の教員に就任することを約束します」という「就任承諾書」を就任予定の人から得て、履歴書や業績書などとともに提出する。
 既に教員として職を得ている人の場合、当然ながら既に在職校に対し「新設大学の教員になります」旨は伝えていることになる。では、撤回すればいいではないかという声もあると思う。しかしそれは時すでに遅しである。とりわけ、看護の分野においては、他分野に比べても教員のなり手が少ない。大学も確保するのに必死な状況である。そもそも大学の教員は、様々な専門分野に分かれており、代りになるうる教員を確保するには、担当科目との適合性や資質を判断するのに時間がかかり、確保も容易ではない。既に代わりの教員探しに着手し、確保していたものと思われる。すなわち、やめると表明した教員はドタキャンすることは不可能な状況である。
 ということで、多くの教員就任予定者の方の職が突然なくなってしまうという事態に陥ることになる。そうした状況になることをわかったうえでの決断だったのだろうか。


 すぐにでもわかりそうな、しかも国民の生活が第一と選挙でいっていた民主党のその大臣が、こうした生活や人生に直結する問題があるにもかかわらず、このような判断をしたことに「またか」という思いもないわけではない。
 しかし、田中大臣がこうした判断を下さなければ、大学の設置認可に関わる欠陥は明らかにはならなかったとはいえる。裁量権の逸脱であるかどうかはともかくとして、大臣判断によるちゃぶ台返しの可能性はいつだってあったはずだが、そうした可能性を想定外として排除してきたことに問題はなかったのだろうか。ちゃぶ台返しをしたのが「たまたま」田中大臣であったわけで、制度としての欠陥を政治家の個人的資質に転嫁することは、それこそ無責任極まりないことだ。