悲劇の向こうに見えるもの

児童虐待の報道が、今年も聴かれる。報道自体は来年も、そのまた次の年も続くのだろう。他方で、数は少ないが、無理心中の事件も報じられている。そんな中の一件。

無理心中か:鉄橋で夫婦、自宅で息子死亡 福島・会津若松 (毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20121028k0000m040055000c.html

その後の報道として、以下のことも報じられていた。

会津若松の心中/長男の施設に手紙 (朝日新聞
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211130009

この報道に接し、横塚晃一さんの『母よ、殺すな』(生活書院)の本を思い浮かべずにはいられなかった。日本の障害者運動の中で、語ることを外せない「青い芝の会」という団体がある。自立生活運動の方向性に多大な影響を与えた団体。その団体の理論的支柱であった、横塚さんが著されたものである。横塚さんのこの著書は、2007年に立岩真也さんの補遺も加えた形で復刊されているので、障害のある人と家族の関係、自立生活運動に関心がある方はお手に取られることをお勧めする。

青い芝の会の行動綱領の1つに「我々は強烈な自己主張を行なう。」とある。この自己主張の必要性は、1967年に起きた父親が障害のある息子と心中を図った事件に関係がある。他の障害者の親の団体等が減刑嘆願運動を行ったり、メディアは施設がないことが事件の背景にあると報じたりして、世論の大勢は父親に対し同情的であったとされる。つまり悲劇として語られていた。そうした中で、青い芝の会は、介護疲れによって、心神喪失が認められれば、障害者にとっては「生存権の危機」であるとして、命を守る自己防衛の手段として、強烈な自己主張を行うに至っている。
青い芝の会が注目されるようになった事件がある。1970年に横浜で起きた母親による脳性麻痺の子どもを絞殺するという事件が起きた。この事件でも親の団体等は、減刑嘆願の運動を行っていたが、青い芝の会は、厳正な裁判を求めた。結果としては、殺人事件としては異例ともいえる減刑がなされたが、当事者による問題の告発は大きく注目されることになった。



親が「障害のある子どもの将来」や「親亡き後」を心配するのは、今日障害のある人が置かれている状況から考えればやむを得ないのかもしれない。初めに話題に挙げた福島の事件。そこでも施設に宛てた手紙の中で、「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」とある。親が成すべきことは何だったのだろう。いや親が何かを成すべきだったとのだろうか。親に対して、いろんな思いが湧き上がってくる。



その一方で、命を紡ぎ、命を育んだ、その親に命を奪われることになった人の命に思いを寄せたい。確かに、親が障害のある子どもを育てるには様々なエネルギーがいる。一言で言えば、「育てるのは大変」となるだろう。その視点を障害のある人に移してみると、「育つの大変」であり「生きるの大変」な面もあるだろうが、多くの報道、あるいは親の会などの主張を見ても、肝心要の当事者の声や思いは見えてこない。
障害者の暮らしの生きづらい面が強調されやすいのは、幼少期や青年期を通じ、親と一体となった育ちが前提となっていることに関係している。障害のある子どもの療育には、施設への送り迎えや家でのトレーニング(リハビリ・訓練)、介護等、親の負担が大きい。子どもを入所施設に入れる場合でも、近年では週末帰省や少なくとも長期休暇等では家庭での生活があり、そこでは親がケアに携わることになる。さらに障害のある子どもとりわけ、その障害が重度であればあるほど、親子の依存関係は、青年期に渡っても続くことになる。
そうした中で、年を重ね、親が親としてできることはない、無力感が感じ、子どもの命を奪うという選択に追い込んでしまう。「迷惑をかけるだけ」の言葉には、そうした無力感への親の強烈な嘆きが込められているのではないだろうか。



親が無力感から解放されるには、様々な重し、壁を取り除く必要がある。では、障害のある子どもの親が抱える子育ての重しをとるためにはどうしたらよいだろうか。その為にはまず、障害のある人に一方的に課せられている重しをまず取り除くことが肝要だ。障害のある人の暮らしや生き方に辛さや努力を押し付けることをやめなくてはいけない。人より努力することを強いられることあるいは置かれた状況や障害についての思いを自らの中に押し込めさせること、我慢させられること、これが障害のある人の未来への眼差しを暗くさせる要因になっている。


そうした要因が薄れ、障害があっても気楽に生きることへの共感が広がれば、親の負担感は確実に減る。何よりも子育てが楽しいし、積極的に関わろうという意識が日本社会に浸透し、様々な人、機関、地域が子育てにポジティブに関わることになれば、画一的な子育て像から脱却できる。画一的な子育て像があるからこそ、障害のある子どもの子育てはもっときつい、という印象が流布、固定化される。そうした状況を何とか変えていきたい。変えなくてはいけない。2度と同じような事件が起きないように。