支援とは何か 〜支援につなぐことの難しさ、支援そのものの難しさ〜

世間はクリスマス、そして年末を迎えて何だかせわしない。せわしなさに流されそうになる中でも、心を落ち着かせ、向き合わなければと思う現実がある。クリスマスイヴの日に児童遺棄事案があった。詳細は以下の通り。

24日、埼玉県三郷市で、国道の植え込みに置かれたバッグの中に、生後まもない赤ちゃんが放置されているのが見つかり、警察で保護者の行方を捜査しています。


24日午後4時40分ごろ、三郷市高州の国道298号線沿いの植え込み付近から、赤ちゃんの泣き声がすると通りかかった人から警察に通報がありました。このため、警察官が現場に駆けつけたところ、植え込みの下に置かれたバッグの中に赤ちゃんが放置されているのが見つかりました。
赤ちゃんは生後まもない女の子で、へその緒が付いた状態でタオルなどにくるまれていて、体温が下がっていたため、病院で手当を受けていますが、命に別状はないと言うことです。また、赤ちゃんが入っていたバッグは、植え込みの下に隠すように押し込まれていて、保護者の置き手紙や身元を示すものは添えられていなかったということです。
警察は、保護責任者遺棄の疑いで保護者の行方を捜査しています。


NHKニュース 12月25日5時30分


どの程度植え込みの中でいたのかはわからないが、夕方に発見されたということで、置かれてからさほど時間が経ってなかったのだろう。この寒空だ、一晩を赤ちゃんがその下で過ごすことは厳しかっただろう。命に別条はないということで、その点は、無事で本当によかった。


この事案、皆さんはどう思われるだろうか。Twitterなどを眺めているとかなり親に対するバッシングが見受けられる。「こんな寒い日に捨てるなんてひどい」「子どもを棄てるくらいなら産むべきではない」「保護責任者遺棄ではなくて、殺人未遂ではないか」こんな声が上がっていた。最近の児童虐待に関する報道もあってか、親とりわけ母親に対するバッシングはかなり強くなったように感じられる。


しかし記事をよく見ると、親の心の揺らぎのようなものが感じられる。まず1つは、生まれて数日経っている点。もう1つは、遺棄そのものの状況である。まず1点目。生まれてから数日経っているという。ということは、生まれてから棄てるに至るまで親子は少ない時間であったにせよ、時を共に重ねたということになる。その間、親はどのような思いだったのだろう。様々な不安に押しつぶされそうになったのではないだろうか。
2点目。遺棄そのものの状況について。遺棄には大きく2つの側面がある。1つは、子どもの存在そのものを消したい、関係を断ち切りたいという側面。もう1つは、自分では育てられないから、誰か他の人に発見してほしいという側面。今回の事案について言えば、前者の側面が強ければ、もっと単純な方法があったのではないか。タオルなどで巻いて赤ちゃんが寒くないように配慮したとも見える。一方で、植え込みの中に隠すように置くことは、親子関係の断絶や子どもの存在を消すことを意図しているとも見える。


子どもを棄てるに至るまでには様々な過程がある。子どもを棄てるのは無責任だとか、そもそも産むべきではない等といったような主張には、遺棄という行為しか踏まえられていない。つまり、親が子どもを産む行為を遺棄目的として行うわけではない。様々な経緯があって産まざるを得ない状況に追い込まれているわけで、そして不安と混乱が入り混じった中で遺棄を決断することになる。


妊娠を認識し出産に至るまでの間、周囲に相談できなかったのか。そのような問いを発する人もいるだろう。そこで、相談に乗ってくれる機関としてもっともピンとくる行政機関は児童相談所だ。しかし、混乱状態の中で児童相談所に相談する選択肢がそもそも浮かぶだろうか。例え、その選択肢があったとしても選択するにはかなりのハードルがあるのではないだろうか。
相談者にすれば、自身が抱えている怒り、不安、迷いなど淀んだ葛藤を見ず知らずの人に開示しなくてはならない。どうせならこのままやり過ごしたいであろう自身の心に、言わば鞭を打って相談することになる。人には打ち明けられない、SOSすら発することができない思いを抱えているからこそ結果として遺棄につながるのである。


さて、こうしてみるとそもそも相談以前の段階で、児童相談所児童福祉司の役割が必ずしも、相談者のニーズと合致するわけではないことになる。児童福祉司ソーシャルワーカーと言えるだろうが、だとすれば、ソーシャルワーカーの役割が相談者のニーズとかい離が生じていることになる。
ソーシャルワーカーはその実践活動の中で、しばしば当事者と関係のサービス機関との橋渡しをすることがある。「橋渡し」といえば聞こえがいいが、当事者のニーズと関係する機関とのサービスや姿勢とが衝突するときがあり、その衝突を調整する(あるいは回避する)ことをその任とすることになる。児童虐待の例で言えば、時として関係者間の思いのかけ違いに出くわすことも多い。そのかけ違い、さらに当事者自身の混乱状況、子どもの安全確保、子どもの最善の利益につながるかどうかの見極めなど様々な要素がぶつかりあいながら、支援のあり方を模索することになる。時として、相談者に辛い決断を迫ることだってある。
しかしそうは言っても、相談者の思いを受け止め、そのニーズの核心を共に見つけ出すことは必要なことではないだろうか。それがなければ、子どもの命を守れたとしても、相談に来た人の尊厳を守ることにはつながらない。


児童遺棄の対応については、基本的には「遺棄後」の対応が中心になっており、その前に止める手立ては日本にはほとんどない。そうした緊急事態に直面している人に対する支援をどうするかは、先に述べた支援につなぐハードルの高さに加え、そうした事態に直面している人にとって守るべき尊厳とは何か、ソーシャルワーカーとして彼らの尊厳を守る上で譲れないラインはどこなのか、そうした議論が極めて不十分なことも問題を深刻化させている要因だ。こうは言ってみたものの、実はそのラインは一体どこにどのように引くべきかの解は、持ち合わせていない。
児童遺棄の問題は、単に親の責任に帰せばよいというわけではない。子どもを産み育てるという事は、様々な依存先があってこそできることだ。それすら見出すことができず、S0Sを出そうにも出せないそうした親の切迫した孤立にいかに対処すべきなのだろうか。あるいは、親が負担感なく自分の思いを吐露できる場所をどうつくるべきなのだろうか。


児童遺棄。子どもにしてみればとても当惑することではある。乳児は意思表示ができないわけで、後に一方的に棄てられたという事実は極めて酷である。その一方で、混乱し非常事態に置かれている親にも、まなざしが向けられることがない。親にとってもこの事実は極めて酷なことではないだろうか。


子どもの立場で見た時、遺棄とは何を意味するのか。この点については、後日に記事にできればと思う。