前か後か~生活保護の役割~

生活保護は、誰のためにあるのだろうか。貧困問題は、個人だけが抱える問題なのだろうか。積年の問いにそろそろ向き合い、行動すべき時に来ているのではないか。。

生活保護受給の申請のいわゆる厳格化が着々と、強化・推進される今日の状況。不正受給の問題がクローズアップされる一方で、生活保護制度の現場や生活保護制度にすらつながらない孤立と貧困の実態については余りフォーカスされない。例えば、生活保護と餓死。2006年の北九州市、2012年の札幌市など生活保護受給に至っていれば、と悔やまれる餓死の事案が起きている。そして2013年5月24日、今度は大阪市で餓死したとみられる母子が発見された。


この事案が報道された時、最も危惧したことは、この事案が不正受給問題とリンクする形である種の美談として拡散されることだ。案の定、そうしたリアクションが少なからず見受けられる。生活保護を受給すべき事情があったとしても受給しないことを美徳や美談として捉える、称賛する、拡散することに何の意味があるのだろうか。
不正受給者がいるから、「本当に困っている」人が生活保護の受給に至らないというわけではない。厚生労働省の発表によれば、日本の2011年度の生活保護費に占める不正受給の金額はおよそ0.5%だ。貧困状態に陥り、生活が立ち行かなくなっているという情報が行政機関や民間団体に共有されず、支援や保護につながらないことが問題なのである。


生活保護に至ることなく、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とされた憲法25条に書かれた生存権すら保障されずに亡くなるという悲惨な事態。そもそも、人が亡くなってから生存の権利が云々などと議論しなくてはいけないことに猛烈な違和感が湧き起こるのだけれども・・・。それにも拘らず、美談や美徳として語る背景は何があるのだろうか。


少なくとも生活保護は本当に困る前に辿りつける制度であって、「本当に困っている」状態とは、日本においては、孤立と貧困により「命の危機」にある状態のこと。そうなってからでは手遅れになってしまうかもしれない、生きていけないかもしれない。


生きていくことのハードルを日本社会は上げ過ぎている。