自分にできること 〜覚悟〜

話すに話せない、動くに動けない、ついにはどうしようもないところに追い込まれる。その先にあるのはただ絶望と断絶だ。貧困に至る過程の中で、絶望や断絶といった状況に追い込まれていった。そして、結果として生涯を終えるという選択をせざるを得なかったのだろう。今回報じられている大阪・母子餓死事案についての私なりの推測だ。
パーフェクトで尚かつ、困っている人は世の中には存在しない。こうすればよかった、あるいはやるべきことをやっていないなどと、失われた命に対して、様々に非難し攻撃することに何の意味があるのだろうか。問われるべきは、私たち一人一人に何ができ、社会として今後何を為すべきかであって、母の責任ではない。


既にいくつか、具体的な行動を提案している方もいらっしゃる。その内容は、母子生活支援施設という施設があることを含めた情報提供、生活福祉基金貸付制度の存在の周知、DV被害者のためのシェルターへ食べ物を配給するNPOへの寄付等々だ。これらの提案は、もちろん非常に意味のあるものではある。しかし、絶望の中にいる人にこれらの提案、とりわけ福祉施設や福祉制度に関する情報提供が、本当にうまくいくかと言われると、残念ながら極めて難しい。


福祉制度や福祉施設の利用に当たって、「相談」はつきものだ。それは、民間の支援スキームでも変わらないだろう。ここでいう相談とは、支援の対象になりうるかどうかを判断する為のフローの1つであり、支援する側のための1プロセスに陥ってしまいがちである。支援する側にとっては、この相談、またの名をインテークとも言うが、とても重要である。援助者はたいてい組織に属して活動しており、所属する組織の役割を超えた援助は、原則あり得ないからである。また援助に責任を持つためにも、相談者の相談事項について、組織として対応できるかどうか判断することは必要不可欠である。だからこそ、始めの一歩である相談は重要なのである。
では、困っている人から見ると、始めの一歩である「相談」は、どういう意味を持つと考えられるだろうか。そもそも追い込まれた状態にある人にとって、相談することには大きな壁が存在する。
相談をすれば解決する、良い方向に向かうと客観的に思われることであったとしても、困っている人にとっては、状況を変えたい、助けてほしいと思いと言い出すことができないという思いの狭間で苦しんでいる。苦しんでいることをたいていの場合、周囲には悟られたくはない。そうした状況を理解せぬまま、支援情報をやみくもに提供することは、逆に苦しみを悪化させる重荷を困っている人に背負わせることになる可能性が極めて高い。自らが苦しんでいるにもかかわらず、他者にその解決を委ねることは、自らの行動、思いを否定することになりかねないからだ。


児童福祉の最前線とも言える児童相談所でも、始めの一歩である相談の受付、初回面接(受付相談)の重要性は認識していると考えられる。児童相談所の業務について規定している、児童相談所運営指針では、以下のように相談受付について位置付けている。

相談の受付時は子どもや保護者等にとって危機的な状況である場合もあり、この間の相談受付の方法がその後の経過に大きな影響を与えることになる。したがって、子どもや保護者の気持ちを和らげ、秘密は守る旨話す等受容的かつ慎重に対応する。妊娠等について悩みを抱える相談者からの相談等で、相談者が匿名を希望した場合であっても、相談に十分応じ、初回相談では詳細な情報が得られなかったとしても、次回の相談に繋がるよう上記のような丁寧な対応を心掛ける。

児童相談所運営指針(厚生労働省


また初回面接の目的は次のように規定している。

受付面接は、子どもや保護者等の相談の内容を理解し、児童相談所に何を期待し、また、児童相談所は何ができるかを判断するために行われるものである。

児童相談所運営指針(厚生労働省

とはいえ、例え相談に至るとして、指針に書いてあっても職員に責められるのではないか、自分に非があるのではないかと不安に陥ることはやむを得ない。受付相談員と相談に来る人は初対面であり、面接を通じて、信頼関係を築いていく、つまりゼロからの出発である。これはたとえ研修を積み、経験を重ねた児童福祉司であってもなかなか至難の業である。


従って、情報を提供することは大事だけれども、提供された情報が有用かどうかは重要なポイントにはなり得ない。むしろ提供する人が、信頼に足りる人かどうかということが困っている人にとっては重要な意味をもつ。この人になら、話しても大丈夫だという信頼感、安心感がなければいけない。しかしこれは、都会にいるからといって簡単に見つかるものではない。これは、何かしらのサイン、シグナルに気づいた人の対応にかかっていると言えるかもしれない。
話しても大丈夫な人とはどういう人のことだろうか。ここからは完全に私の経験でのみ綴るが、大丈夫な人は、異常なシグナル、サインに気づいても、闇雲に聞かないし、一方的な指示もしない。困っている人に、話すことを自然に促し、引き出し、そして思いを溢れ出させてくれる。そう考えると、話を聴くという事は思いの外大変なことなのかもしれない。


そうだとしても、私は、身近な人、大切な人が困った時に、その傍らで話を聴く人でありたい。今自分にできること、それは、相手を想い、大切に思うからこそできる、かけがえのない、でもありふれている「聴く」ということだと思う。