支えること、助けること、寄り添うこと

大変遅くなりましたが、年明け初の更新です。本年も不定期更新になりそうですが、お付き合い頂けると幸いです。
年末から年始にかけて、シラバスの作成、卒論指導、レポートの添削、試験の作成、そしてセンター試験と立てつづけての業務に追われ、じっくり何かを考える、深める時間を持つことができずにいました。センター試験も無事済んだということで、やっと一段落。NPOの方も、新団体への移行に伴う諸業務、新規事業の構想・具体化などがあり、バタバタした日々を過ごしています。
家庭・子育てはといえば、年末年始、子どもたちは元気に過ごしていました。インフルもノロにも罹患することなく、無事乗り切った感じです。


年末年始は、様々な業務の合間を縫って、勉強会、研修会に参加する機会が多くありました。年末年始は、児童自立支援施設出身者の会の勉強会、男性保育士の勉強会、少年院出院者の方々の集まり、障害児学童保育に携わるNPOの勉強会・・・。素敵な出会い、学び、交流の場に参加でき、とても有意義でした。
そして、本日は1月20日。2014年は初めてのタイガーマスク基金の勉強会に参加させて頂きました。そもそもというか・・・いい加減会員になろう!という思いはあるのですが、もう少し落ち着いてから、振込の時間、郵送の時間を確保できたら、すぐ申し込もうと考えています。


勉強会で、タイガーマスク基金の理事の方々が「子どもたちに、寄り添うということ」をテーマに社会的養護や施設の現状、課題等々熱く語られていました。いろいろ思うところはあるのですが、年末年始に参加した勉強会での議論も併せて、「児童(家庭)福祉」の意味や社会的養護を巡る議論のあり方について、綴ってみたいと思います。

私が人生において、福祉に生涯関わろうと思ったのにはいくつか理由がありますが、一番の理由は「自分と同じ思いをしてほしくない。」ということです。後ろ向きですよね・・・。ともすれば、福祉を否定すらしかねない、そんな理由です。施設や里親など、児童福祉の措置制度の中で放浪していたとき、私は、福祉という言葉の恩着せがましい感じと尊大なイメージに嫌悪感を強く引き摺っていました。言葉だけでなく、福祉施設・制度の不自由さ、理不尽さにいら立ってもいました。そのいら立ちは、何なのか、大学に入り、福祉の勉強を少しするようになって、「福祉が人を殺す時」という本と出会いました。出会った瞬間、自分を取り巻く福祉の現状を言い表すのにぴったりなタイトルだと思ったものです。

その否定的感情の一方で、福祉施設にも福祉制度にも「日常」がある。他愛もないことかもしれないけれど、否定的に、一方的に時には断片的に語られがちな「福祉のある生活」を日常という視点から捉え直すことの必要性も感じていました。家庭的ではない環境かもしれない、借り物の環境かもしれないけれど、そこには日常がある。何気ない日常を大事にすることによって、福祉のあり方を変えられるのではないか、そう思う自分もありました。


社会的養護の議論の中で、施設養護と里親は対立するかのごとく、語られることがしばしばあります。児童福祉を専門に研究されている人や、現場に関わる人でさえ、対立を煽るかのようなことを言われる方もいらっしゃいます。
日本は施設養護が中心だが、世界は里親が中心だから日本も里親を推進していくべきだという主張はよく聞かれます。児童は家庭的環境で育つことが望ましい、そうした思想が根底にあるのですが、その思想の主語は、たいてい大人です。施設養護と家庭的養護(里親)が対立的に捉えられる今日においては、家庭的養護、つまり里親になじめない子どもの存在、里親の養育ではカバーしきれない子どもは、結局施設に放り込まれ、「隔離」されることになります。結局、よりしんどさを強く、多く抱える子どもが、家庭的環境から隔離されることになります。しかし、そうした子どもたちには家庭的環境は必要ないのでしょうか?
今日の社会的養護、とりわけ家庭的環境の必要性が 特定の意図を持ってその必要性が論じられているのではないか、そんな懸念を持たざるを得ません。本来、施設養護も里親も親御さんを中心にしたニーズがあって、あるいは明確な目的、存在意義があって成り立っています。そこのところは、児童福祉法に明確に規定されているわけですが、児童福祉法には、どこにも互いを否定し合うために各々の施設・制度が存在するとは書かれていません。本来、児童の福祉や自立に資するための制度のはずです。お互いの基盤は共通のはずなのに対立する、これははっきり言って、「大人の事情」でそうなっているとしか思えないのです。子どもたちやその家庭の現状等を踏まえ、「措置」がなされるわけで、今の議論のあり方は、どこか不毛な感じがします。


子どもたちを支える、寄り添う。言葉にすると穏やかな感じがしますが、現実はそうでもありません。子どもも、職員も、いろいろぶつかりあったりしますし、時には安全確保も図らなくてはなりません。
支える、支援するということは、まず「子どもの思いを聴く」ということから始まります。専門職たる人たちは、課題や現状を分析することをよくします。しかし、ともすればその分析がただの枠にはめ込めるかどうかといったものに陥ることがあります。しかし、専門職は、特定の援助技術や知見の専門家ではありますが、目の前の子どもの専門家ではありません。だからこそと言っていいかもしれませんが、入所/措置当初は、子どもの思いの表現が、大人にうまく伝わらないことや、認識のズレから生じる誤解などで、パニックになったり、ぶつかりあうことがよくあります。なかなか意思疎通ができず、不幸な状況を招くことさえあります。支えることも寄り添うことも、人と人とのつながりの中での関係性の一部です。つながりが切れることも、こじれることも当然あります。


振り返れば、私も児童福祉の各種施設に入所していた時や里親委託されていた時に、こいつら(職員)は、親でもないくせにエラそうな、わかったようなクチききやがってと思ったこともありました。仕事として向き合ってくることへの怒り、悔しさと言い換えてもいいかもしれませんが、とともに、土足で踏み入ってきて、あーでもない、こーでもないと絡んでくることへの強烈な嫌悪感の2つが混じりあった感情を持て余していました。先日の児童自立支援施設、少年院で過ごした経験を持つ仲間たちとの語らいの中でも、その複雑な感情について共有できました。


そうした感情を消化できずに、あるいは入所前のしんどさをうまく解消できずにいる人たちがいる、それが、さぼりがちだった大学での学びの中で感じたことでした。単に、施設や里親、そして社会の仕組みに迎合しろという意味ではありません。子どもの声を聴くということを、いろんなアプローチで行うことができれば、自分と同じ思いをせずに済むのではないかということです。そうすることによって、施設も里親も、あるいは家庭や地域社会、社会の仕組みも変えられるのではないか、そう考えています。

ちょっと時間も遅くなったので、この辺にしておきます。こっそり加筆するかもしれませんが、ご容赦ください。