聴くこと・語ること・向き合うこと

もうちょっと前にこの本と出会っていればなー。読後の独り言。

荒井浩道先生が書かれた「ナラティヴ・ソーシャルワーク―“〈支援〉しない支援"の方法」を一通り読み終え、過去の自分の体験と重ね合わせる。「そうか、それはうまくいかなかったはずだ」と反省というか後悔の思いを想起。そして今自分が関わっている活動・研究にあてはめ、多々思いを巡らせる時間を頂いた。

困難事例、多問題家族、限界集落というラベリングによる先入観。それが「問題」を強化しかねないのだということを改めて教えて下さった。

ナラティヴ・ソーシャルワーク―“〈支援〉しない支援

ナラティヴ・ソーシャルワーク―“〈支援〉しない支援"の方法



少し前の話ですが、学生時代、障害学生「支援」に携わっていた時期があります。以前もブログで数度にわたり、その時の思いなどを綴っています。そこではあまり直接的には触れませんでしたが、今振り返ると、当時、なかなか進まない環境づくりに、重苦しさを感じまくっていたなと思います。それは、別の立場に身を置く今の職場でも感じていますが。

当事者である学生、直接サポートする学生、大学側と向き合い間接的にサポートする学生、それ以外の学生さん、親御さん、大学側、様々な関係者の中で右往左往していました。何をどう前に進めるべきか、ときには方向感覚すら失いがちになりながら、しかし、環境づくりのはじめの一歩を踏み出せるよう、努めてきました。もちろん、失敗に終わったアプローチもかなりあります。

一番困ったのは、当事者である学生さんの声の集約です。大学としてよりよい環境整備を進めるためには、それなりの声の集約と共有が不可欠です。
何か問題を抱え、困っていたとしても、その声が小さく、一定程度の共有が図られていないと環境の向上にはつながりません。大学は多数の人がそれぞれの役割を果たすべく、日々動いています。週に10コマの授業をとれば、のべ10人の教員が携わり、事務室には事務職員がいて、施設の維持管理にあたる人たちがいます。
大学として障害学生支援に取り組もうとなると、様々な役割をもつ多くの人との「問題」の共有が図られなければなりません。そんな多くの人と関わることは、学生さん1人では体力も気力も持ちません。
もし、1対1で、その場限りの支援を構築できたとしても、築かねばならない関係が多すぎたり、職員の異動等で支援関係は消失したりするという場合もあります。最近では、そうした学生側の負担を減らすために、「障害学生支援室」などといった組織を設けているところもあります。
ところが、そういた組織の設置やノウハウの蓄積、支援体制の構築までに、そして環境整備をより前に進めるためには、一定程度の声の共有が必要になってきます。環境の整備には経済的なコストや人的、時間的なコストが発生します。そうしたコストがかかることの負担感もあって、障害学生がスムーズに支援を受けられるとは限らないケースもあります。
これを打破するためには、同じように困っている学生さんの声を集約することが挙げられます。「困っているのは、私だけではない」という声が多ければ、大学としても、より効果的な支援や環境整備の必要性を感じるでしょう。

もう1つ、多様な学生との声の共有です。支援を必要とする学生さんだけの声では、環境づくりという意味では不十分です。支援に携わる学生、支援に携わらない学生、それぞれの学生さんとの声の共有が必要になってきます。これはとてもエネルギーを必要とします。特に今まで問題と思っていない、その問題が身近でない学生さんに、「問題」として共有してもらうわけですから、その働きかけには工夫を要します。
なぜ、支援に携わる学生さんだけでなく支援に携わらない学生さんとの共有が必要なのでしょうか。学生さんはどんどん入れ替わっていきます。学年を経るとともに、学びの集団もそのメンバーが入れ替わります。例えば、1,2年生では語学のクラスがあったり、3、4年生ではゼミがあったりします。大学の規模にもよりますが、授業、クラスのメンバーの構成は変わるので、当事者学生はそのたびに、新たに関係性を築くことが必要になってきます。今現在は支援に関わらなくても、いつそういう場面に遭遇するかはわからないのです。大学の側から言っても、学生全体の問題意識の向上は、支援環境の継続的な整備には必要不可欠です。これがないと、一部の支援学生に負担がかかり、もしその支援学生に何かあった場合の対応が難しくなるリスクがあるからです。

声の集約と共有の必要性について触れましたが、先にも綴った通り、学生時代四苦八苦しました。単に私個人の問題であるとは思うのですが。学生時代は、当事者学生でもあり、当事者を直接的にサポートする学生でもありました。そして、大学側と向き合い間接的にサポートする学生でもありました。とてもわかりづらい立場だったと言えます。そうなったのにはいろんな事情がありますが(笑)

わかりづらい立場であるが故に、失敗してしまったことがあります。それは声の集約です。声の集約の必要性を何となくわかっていたがために、懇談の場で十分に当事者や支援学生の言葉を引き出すことができなかったように思います。当事者としての思い、サポート学生としての思い、大学側の意図もそれなりに理解していた中では、自分自身の心の中に、様々な思いが湧き出してしまい、十分ファシリテートができませんでした。そう「無知の姿勢」を貫くことができなかったのです。早く問題を解決したいという思いと同時にそうした声を共有するという貴重な場であるという思い、この2つをうまくバランスをとることができなかったのだと今振り返ると思います。

さいごに、もう1つ考えなくてはいけないのは、「支援」を必要としない学生さんの存在です。「声なき声」と言ってもいいでしょうか。大学には、障害学生と言っても、その障害は多様です。大学では担いきれない支援を必要としている学生もいれば、支援を否定する学生さんもいます。そうした学生さんの思いを聴くことによって、新たな問題、支援のあり方、大学とは何か、教育とは何かという課題の一端が見えることがあります。


最近では、いわゆる面倒見の良い大学を標榜する大学も増えていますが、学生さんとの語りの中で、大学としての支援、学生さんとの関わりのあり方を、日々見つめ直していかなくてはいけないなとこの本を出会ったことで、気づかされました。