「ひとり親を救え!プロジェクト」論争に思うこと

福祉の現場に身を置くものとして、思うことがある。現場においては、当事者は一様ではないということは口を酸っぱくして言われることである。障害児福祉の現場でもそう。たとえ、同じ障害名であっても、子どもによって、障害がもたらす困難、障壁は様々だ。生育歴が違うし、パーソナリティが全然違う。だからサポートもいろいろコミュニケーションをしつつ、手探りながらやっていく。さらには家庭の状況や必要な支援も異なる。

学校の同級生や後輩に「ガイジ」「シンショー」と言われたり、「家なき子」と言われたり、いろんな言葉を投げつけられてきた。思い返せばひどい言葉のオンパレードだが、そうした言葉を投げつけられるたび、自分は「障害児」「棄児」であるということに対する葛藤、憤り、疑問が湧き上がり、それがアイデンティティーに深く根ざしていったように思う。時間を重ねるにつれ、投げつけられる言葉をブロックするスキルを身につけ、強化していったことで、今はそうした言葉からは距離を置けるようになった。

とはいえ、言葉に対してアンテナを働かせなくなったわけではないし、今も消化できていない言葉だってある。
逆に距離をとることによって、言葉に対する視野が広がるので、見えなかった思惑、言葉の背景などを見つめる機会も増える。それを無防備に見ると、一層自分自身を傷つけてしまうことだってある。自分は「社会からどう思われているのか」ということをある1つの言葉から、感じ取ることだってできる。


児童養護施設児童自立支援施設、少年院などで過ごした人と話す機会もよく持たせて頂く。多くは施設の職員や地域、あるいは同じ施設で過ごした入所者の言葉について話しになる。あのとき、こんなこと言われたんだよね、あれ言われたのがむかついた、うざかったなど、あるいはあの言葉は、嬉しかったなど。年数を重ねても結構覚えているんだよねと、昨晩あった肢体不自由児施設で過ごした経験のある友人が言っていた。たしかに、自分も話し出すと結構覚えていた。


前置きが長くなってしまった。最近ネット上を少し賑わせている、あるいはTVなどでも取り上げられているプロジェクトがある。ひとり親を救え!プロジェクトだ。ざっくりいうと、児童扶養手当の2人目、3人目以降の子どもに対する手当の加算額を増やしてください!!ということを政府にお願いする、というプロジェクト。そのプロジェクトの名称がひとり親を救え!プロジェクトと言っている。政府にお願い(陳情)するといっても多くの人がその活動の主旨に賛同していれば、政府に大きなインパクトを与えることができ、それが法改正等に結びついていくことになる。このプロジェクトが行っている署名活動、私の知り合い、友人も少なからず賛同している。変えたいと思っていることには、とても共感できるし、応援したいなとも思う。


シングルパパの1人としては、ひとり親家庭の所得保障は、子どもの生活安定につながるので賛成だ。2人目の加算が5000円、3人目以降は3000円の加算はいかにも少ないと言わざるを得ない。厚生労働省が出している全国母子世帯等調査(H23年)によれば、シングルママの世帯の平均就労年収はおそよ180万、子どものいる世帯の平均年収およそ3分の1だ。仕事をいくつも掛け持ちしているお父さん、お母さんも少なからずいる。生活保護を使えばいいと思われるかもしれないが、昨今の不正受給をめぐる報道等もあり、心理的ハードルは上がっていると言わざるを得ないし、受給できたとしても様々なトラップがあって、生活が真の意味で安定するかといわれると、疑問符をつけなくてはならない。児童扶養手当の加算がそうした状況を少しでも変え、貧困率の改善、子どもの学びの機会の保障にもつながる。


このPJは、広い意味では子どもも含む家庭への支援だが、主眼は親への支援と言えるだろう。それはPJのタイトルにも表れている。
ここ数日、私はこのタイトルにモヤモヤしたものを感じている。どうも救え!という言葉に重量感を感じてしまって、著名で影響力のある方同士がいくぶん激しいやりとりをされていて心が苦しい。今一生さん、そしてDr.Keiさんがブログやツイッターで考えを述べられているので、そうだよねと思ったり、いろいろ考え込んでしまったり。

ひとり親について、その生活問題を語る切り口の多くは就労や所得保障だ。いずれも光の向きは親だ。子どもが抱える孤立感、違和感などは施策上は放置され気味だ。このPJのタイトルを見て、救え!という重い響きがマイナスの感情を萌芽させる可能性があるのではないかということだ。今苦しい生活状況を見ている子どもから見れば、救いを受けなければいけない対象なのかということ。敢えて支援する側と言うが、支援する側にしてみればそんなつもりはないのだろうが、変えなくてはいけないのは政策であり、性別役割分業意識が今も色濃く制度に蔓延る、ひとり親やその子どもが生きにくい社会そのものなのではないか。あるいは問われるのは支援する側なのではないだろうか。


当事者は一様ではない。子どもの思いも様々だ。心は揺れ動く。ちょっとした言葉が当事者である子どもにも親にも揺らぎをもたらす。そしてその揺らぎが心の根っこを揺るがすかもしれない。それは家庭の所得の多い、少ないではない。