「やりたくない仕事」とは何だろうか。

今日はじっくり考えてみたい。若い世代を中心に起業がしたいという意思を持った人が増えていると最近感じる。私のゼミ生の中にも、数名、就職ではなくて起業を目指している学生さんがいる。昨年の12月に就職活動が解禁したが、起業活動というのは、いつからでも始められる。その分、自分の意思をしっかり確立しないと、起業にまで行き着かないことも間々ある。

起業したい学生さんの話や既に起業している方のお話を聞くと、「やりたい仕事がないのなら、自分でつくりたい」、「やりたくない仕事をするより、やりたい仕事をやりたい」という声を耳にする。その積極性、意志の強さは、非常に尊敬する。こういう人が、世の中をイノベーションしていくのかなと思うとわくわくさせてくれる。

一方で、起業するにあたって、やはり一般就労(企業での就労)の経験が必要でしょうか?という疑問をぶつけられることもある。私は起業したいのなら、気にすることなく突っ走ることをお勧めしている。企業就労における経験が生きることもありますが、企業において得られるものは、人によって違うので、企業で働いて何をしたいのか、どう起業に結び付けるのかということをイメージできるのであれば、企業での就労経験を積めばいいのではないかと考えている。

ただ、よく就職活動をせずに起業をする人に、「自分のやりたいことだけやるのが仕事ではない」「(起業は)そんな甘いものではない」と忠告する人もいる。企業で働いたからと言って、甘さが解消されるかというと、実際のところよくわからない。そもそも、甘さが何を指しているのかはよくわからないことが多いが。この場合は、企業で働く=一人前の社会人という前提の文脈で話されていることが多いので、社会の荒波にもまれてもいないのに、起業なんてしても意味がないという意味なのだろうと私は、解釈するようにしている。

社会の荒波にもまれることを求める一方で、社会の荒波により、人生の行路を見失ってしまう人もいる。そういう人に対しては、意欲が足りないとかがむしゃらさがたりない、あるいは本人に何か問題があるのではないかという、「自己責任」を押し付ける。社会の荒波とは本当に無責任なもんだと思わずにはいられない。

やりたいことがあるならやろうよ、まず挑戦してみようよという寛容で前向きなエールを送ってくれる社会を創っていかないと、日本社会はどんどんおもしろくなくなってしまうのではないかと危惧する。


さて、少し話がそれてしまったが、やりたいことはやらなくて本当にいいのだろうかという疑問も私は持っている。自分の身の丈に合った仕事だけすることなんて本当にできるのだろうか。起業するにしても、企業就労するにしても、やりたくない仕事は当然出てくる。もしやらないとして、その仕事を誰が引き受けるのかという疑問も湧いてくる。

確かに、社会問題に取り組もうとする人がいることはいるけれども、大きな仕事や時間が膨大にかかる仕事に対してなるべくなら回避したいという人もいる。ここらへんの思考は、古市憲寿さんの著書「絶望の国の幸せな若者たち」などを読まれると、わかりやすいかもしれない。

夢のある仕事をするのではなく、身近な幸せを守りたい、それでいいじゃないかという思いはある面、私も共感を持っている。就職氷河期にさらされ、自分の仕事を見つけることすらできず、努力すれば報われる時代でも社会でもないという現実を知ってしまった1980年代以降の世代にとっては、身近な幸せを守ることに必死になるのは、確かに真っ当なことだ。

一方で、身近な幸せを「維持」することに必死になること自体、今まで先人たちが築いてきた基盤が何とか今日に至るまで維持されているからできることなのではないだろうか。しかし、少子高齢社会や東日本大震災福島原発等で、今まで築いてきた基盤そのものの矛盾も見えてきた。今までの基盤を前提にしてそれを消費することによって維持される暮らしは、もはや持続可能性を見いだせなくなっているのではないだろうか。

身近な幸せをどう維持するかということに必死ならざるを得ない人たちがいる一方で、身近な幸せを維持する基盤の外に置かれた人たちへの眼差しは、依然として希薄である。むしろそうした人たちにまなざしを向けることが「面倒な仕事」だとか「自分には(今は)関係ない」と思わざるを得ないのかもしれない。共生社会論では、そういう基盤の外の人に着目して講義を進めてはいるが、正直、前向きな反応があまりなくて、困ってしまうことがある。

社会企業家の幾人かの方に、ゲストとしてきていただいた時の感想の中にも、「こういう人がもっと増えてくれればいい」「すごいなと思いました」などなど、どこか他人任せな感想も目立った。

問題を自らに引き付けて、思考を巡らすことができにくい状況になっているのではないか。そう思わずにはいられない。まちづくりにしてもあるいは、社会的な問題への対応についても、社会に対して思うところはあってもそれは自分がすべきことでも、やれることでもない。こうした思考をもたらす背景には、社会(あるいは国家)と個人との関係の断線があるのではないか。

自分がやっても変わらないから、自分がすべきことではない・自分ではできないと社会問題への眼差しへの変化を生んでいるのはなぜだろうか。

(長くなってしまったので、今日はこの辺で。)