ある日のやりとり 障害児保育園に行きたかった??
福岡、名古屋、東京の三都生活もだいぶ慣れてきた。ただ移動時間は大抵何かの仕事をしてたりなので、あまり休息がとれていない。そういう意味ではもう少し、安寧を得るためには時間が必要なようだ。
先日、ワークスペースで子どもにツイッターを覗かれながら、聞かれたのは障害児保育園のこと。期せずして障害のある子どもの福祉や暮らしについて、子どもたちに説明することになってしまった。「とーちゃんは行ってた??」と聞いてもきたが、そんな保育園は子ども期にはなかった。
ただやはり子どもは直球勝負で聞いてきた。「行きたかった?」
返答に困ってしまった。
当時の自分なら「ゼッタイ、イヤ!!」と答えていただろうなと思う。
というわけで、「ゼッタイ、イヤ!!」と直球で返球してみた。
ただ親としては助かる部分もあるだろうとは思うけど、子どもだからね、そこんところは、特殊な扱いはされたくないという直感的な思いが強くなる。
障害のある子どもの保護者の働き方、暮らしに目が行くことにもなっているので、その点については、施設としての意義は大切だと考えている。
こうした施設ができる前は、親は基本的に子どもに付きっきりの暮らしになる。昨今の状況を考えれば、共働きにしたいと考えている世帯も多い。ただ、一度子どもに重度の障害があるとわかると、行政の側からは、療育やケアへの参加を専従的に求められるケースが多い。実際、常用雇用率は「母親」の場合、子どもの障害の有無によってかなりの落差がある。親としての暮らしに大きな重しになり、経済的、肉体的、そして精神的な負担が増す。
様々な負担感が増せば、家庭生活への影響もある。それだけに専門的にケアしてくれる施設ができること、増えることは歓迎したい。
だけど、、どうも障害児保育園というのは、響きが重すぎる。通所施設や入所施設の持つ響きと変わらない。小さいうちから、障害の有無によって暮らす場所が変わる、隔てられてしまうことへの少なからず不安を感じるからだろう。
つまりは、豊かな子ども期に資する場所、暮らし方は何なのか。障害があることによって、自動的に、一方的に暮らしに様々な制限を受ける。それを継続されることによって、その後の暮らしの選択肢も小さくしてしまわないだろうか。
「障害児」といえば「療育」が半ばワンセットで語られる今日、療育が子どもの重しになってはいないかについて深めていく必要があるし、そして何より障害児の前に子どもであるという当たり前の事実にもっと真摯でありたい。