福祉はウザい、ダルい、ダサい!?

寒いし、雪が降るし、散々な2月も、もう折り返し地点。息子たちはと言えば、今シーズンは概ね元気に過ごしていて、日々、体調の悪い私にはまぶしいばかりのエネルギーを発散しまくっている。



仕事の方はと言えば、例のごとく恒例業務に忙殺され、エネルギー消耗しまくり。一方、NPOの方はと言えば、春に向けて様々な準備に余念がない。そして3月は決算という事で、経理処理も山場を迎えつつある。やりたいことは山ほどあり、向き合うべき課題も多い。課題に飲み込まれず、流されず前を見据え、楽しく仕事をしていきたい。


そんな仕事の合間を縫って、タイガーマスク基金さんがやっている勉強会に今月も参加。今月は道迷わず、会場までたどり着き、ほっとしたのもつかの間、社会福祉法人カリヨン子どもセンターの坪井節子さんのお話に聞き入る。坪井さん、何度かお話をお聞きしたことがあるけど、大変思いのこもった講演だった。その後のグループトークも参加されている皆さん各々の思いがあふれ出て、とても心に響く語りの場だった。ただ、毎回懇親会に参加できなくてちょっと残念だなと思いつつ、いつも心残りもありつつ家路につくことになっている。(そういう場が苦手というのもあるが・・・)


さて、そんな勉強会のグループトークで突き刺さった言葉、福祉はダサい。あーなるほどと同感せずにはいられなかった。福祉学科や保育学科で学ぶ学生さんの中にも、決して福祉に前のめりな感じの学生さんだけではない。実習を経て或いは実習を目前にして、「自分はなぜ福祉学科に来たのかわからなくなった」という感想を述べてくれた学生さんもいる。また、単純に第一志望の学科ではなかったけど、大学は志望校だったから来たという学生さんもいた。またゼミやグループワークをしようとすると、往々にして学生間の温度差をどう橋渡しするかで四苦八苦することになる。この温度差は何だろうか。批判を承知言えば、今の福祉はウザくて、ダルくて、ダサいのだろうと思う。


福祉のウザさ、ダルさ、ダサさ。そもそも福祉が必要と思われる人が福祉を利用するところまでつなぐには非常に多くのエネルギーを必要とする。場合によっては時間も必要とする。しかし、福祉を利用することへの抵抗感を示す人は多い。何かに頼ることがダサいし、頼ったとしてもダルいそしてウザい、そう思っている人も多い。そして昨今の生活保護バッシングも福祉を利用することがダサいこと、福祉にお金(税金)を使うことがウザいという風潮を強化している。さらに福祉労働者の立場に立って考えると、福祉の仕事をしていると奇特だなどというような類の言葉をかけられることも多いが、福祉の仕事に仕事の魅力として、ポジティブな認識が社会全体で共有されている状況ではない。賃金も低い、仕事はきついし、理想とのギャップもある。とてもかっこいい仕事と胸を張れる労働環境ではない。


困った時(必要な時)に利用できる福祉、そうした理想からはかけ離れたイメージ像。そのイメージ像は、児童養護や児童福祉の現場にも色濃く反映されているのではないだろうか。例えば、保育所。最近は保育所の近隣住民から外で遊ぶと子どもの声がうるさいなどと苦情が寄せられるなど、さながら「迷惑施設」と認識されることも増えている。私が参画しているNPOでも子どもたちの居場所、フリースクールを設置するときも、周辺住民の方からは不安視する声が少なからず寄せられ、理解を得るのにかなり時間とエネルギーを要した。


とはいえ、児童養護に関していえば制度が点在している状況とはいえ、最終には「自立」を目指して、様々な援助、事業が展開される。今日の勉強会での坪井さんの話を聞いて、制度と制度の間に落ちてしまう若者、どの制度にもかからないいわば行き場のない若者たちをどうサポートするかが大事だと感じた。一方で福祉を必要としない状態にするための支援を行うことが福祉制度の目的である。現状の福祉制度が点でしか整備されていない状況は問題ではあるが、福祉制度が未来永劫若者を守り、支え続けることはできない。

若者は福祉を利用する前も利用した後も、そして利用している最中も地域コミュニティにおいて生活している。その点に着目すると福祉の前後も最中も、地域コミュニティが非常に重要な役割を果たすことになる。つまり、地域コミュニティが豊かにそしてしなやかに若者を包摂していくことができるかが重要になるはずである。しかし、前述のように若者同士のつながりを育むことあるいは居場所をつくることは問題視、不安視されることも多い。

では、大人の側が積極的に若者に声をかけられる状況にあるだろうか。とてもそれができる状況にあるとは思えない。(だからこそ、居場所づくりが重要なんだよなとは思うが、それを安易に口に出してしまうと話がこじれるので、NPOの現場においては言えないのが辛いところ。)私自身、ライフワークの1つとして居場所づくり、コミュニティづくりに携わっているが、居場所をつくることによって、福祉制度の網にかからず、孤立し、しんどい思いを抱えている若者に「困った時に気軽に立ち寄れる、駆け込める(家庭や施設以外の)居場所がある」と、そしてそこには、若者にとってより身近な存在、バディがいると伝えることができる。さらに、地域に根差すことができれば、「口コミ」も「声かけ」もしやすくなる。


実は福祉につなぐときにもより身近な存在、あるいは福祉利用経験者の存在は意外にも重要な存在であったりする。あそこにいけばなんとかなる、あそこはいいよという声が経験者から聞けば、ネガティブな、あるいは想定外の福祉の利用へとつなぎやすくなる。そう考えると、いかに福祉関係者の働く姿、姿勢が重要か見えてくる。遠ざけたい存在である「大人」がやっている偽善として福祉と思われてしまっては、ウザい、ダルい、ダサい福祉というイメージは強化されるだけだ。


では、どんな働く姿、姿勢が重要なのだろうか。言い換えれば、福祉の働き甲斐は何になるのだろうか。福祉を利用する人はそれまでに様々な重荷を背負い、ボロボロの状態だ。しかしながら、制度は系統的でもなければ、こま切れ状態だ。さらに利用するにはいくつものハードルや書類、調査(審査)が待ち受けている。利用者にとっては、ウザいことこの上ない。一方働く側にとっても、受入れたくても様々な状況で受け入れることができず、苦い思いに包まれ、無力感に苛まれることも度々だ。決して仕事は一筋縄ではいかないし、スマートにいかないし、社会がダメなんだよと、サクッと社会に切り込むこともできない。そして稼げるお金は、仕事のきつさに比して少ない。
しかし、福祉の仕事は人の営みに寄り添う仕事である。福祉を利用して危機を脱し、平穏な暮らしを取り戻す、一足飛びにはいかないけど、人の強さ、エネルギー、可能性そういったものに目の当たりにできる。もちろん、機械で代替できる仕事ではない。人と人との関わりによって福祉の仕事は成り立っている。機械と違いうまくいかないことの方が多いだろう。しかし、人と人とがつながることによって、前へ踏み出すことができる、道を切り開くことができる、さらには、仲間、利用者と共に社会を変えていくことだってできる。そんな仕事だと私は思っている。はた目には、キツイしあるいは地味な仕事も多い、理不尽なことにも日々数えきれないくらいぶつかる。しかし、そうしたことも含め日々の積み重ねなしには、大願を成すことも目の前の課題も解決すらできない。何よりも福祉の仕事は人と人がつながることによって得られるエネルギーを一番実感できる仕事だ。

様々な形で、福祉のポジティブイメージを発信し、福祉を変えて行かなくては。福祉への風当たりは強くなる一方だが、地道にコツコツ拡散していければ。