匿名に隠れた思い。

久々に北海道と三重で夏を過ごす日々を迎えています。子ども期を過ごした地でもあり、いろいろ思い出す日々でもあります。黒歴史とか。


毎日新聞は8月6日の社説で、相模原事件での被害者の匿名報道について、「子供に障害があることを恥ずかしい、隠したいと思っている家族はいる。ただし、家族にそう思わせている社会のありようにも問題の目を向けるべきではないか。」と述べつつ、「「匿名」では血の通った人間の実像が伝わらない。」と主張しています。
匿名にされることによって、障害のある人の存在が消されてしまったような思いを感じる人もいるだろう。一方で、過去に例を見ない事件の被害者として、報道や社会の目といった強すぎる光を浴びることによって、心ない声が被害者にぶつけられるのではないかといった不安を感じる人もいるのではないでしょうか。

子ども時代を思い出しても、両方の思いに心当たりがある。家族にも、本人にも入り混じった思いを抱えている人が少なくないように思います。


ただ「「匿名」では血の通った人間の実像が伝わらない。」という主張には理解はできない。人間の実像は、日々の暮らしにあるのではないでしょうか。これほど大きな事件の被害者としての角度から、報じられる人間の実像は、極めて画一的で、単一的な伝えられ方になるリスクが高くないでしょうか。

養護学校(今の特別支援学校)併設の施設で暮らしていた時、6人部屋の仲間は、私以外は全員重複障害のある仲間でした。障害の程度は多様でしたが、中でも隣のベッドにいた友人は、学習発表会での演劇に向けて、2つのセリフを壁に貼って、3ヶ月くらい朝晩毎日練習して、当日の発表会で、しっかり言い切っていた姿を見て、心底感動したことを今でも鮮明に覚えています。障害のない人からすれば、何てことのない出来事なのかもしれません。日々の地道な声出しを見ていた自分からは、日々の積み重ねの大事さをまざまざと見せつけられた衝撃が走った瞬間でした。

今のようなプライバシーが確保されていない施設の状況は変えなければなりません。しかし、そうした無機質な施設の中でも、日々の暮らしがあり、泣き笑いがあるということです。障害のある人は、不幸を生み出す人では決してありません。障害のある人を不幸たらしめているだとすれば、ざっくりいえば社会なのだと思います。今回の事件が、決して不幸の重荷をさらに背負わせることにならなないよう、立場を超えて一歩一歩社会を動かしていければと、考えています。