家族にはなれないよ

昨日、タイガーマスク基金の勉強会に参加させて頂いた。昨日も書いたが、相変わらず集中力なさすぎる自分。半分くらいはツイッターしていた。断片的につぶやいたが、いろいろ考えた。


私は、児童養護施設等の社会的養護の課題に関する検討委員会・社会保障審議会児童部会社会的養護専門委員会とりまとめに関しては、概して批判的である。中でも大舎制から小舎制あるいは里親委託への推進については、様々な課題があるのではないかと考えている。


1つめ。勉強会の中でもパネリストの中村さん(タイガーマスク基金理事)が同趣旨のことを指摘していたが、職員と子どもの距離が近づくと一方で、職員と子どもの相性が合わない場合、逃げ場がなくなるという問題があるということだ。
大舎制の場合は、シフト勤務によってキライな職員さんがいつ退勤するかはわかる。関わりに先が見えるので、幾分マシである。とはいえ、小舎制にもメリットはある。それは、じっくり職員と話す時間をもつ、職員は子どもの様子をよりきめ細かに見守ることができるというメリットだ。子どもの発達段階や意向も踏まえて、決定ができるようなフローづくりをまず行ってほしい。私の経験からすると、大舎制のほうが楽だなと思う時期もあった一方で、職員を独占できないという葛藤も抱えていた時期もあったので、前述のようなフローの整備を望みたい。

今回の勉強会では触れられなかったが、障害のある子どもの入所施設についても、専門機能の強化と家庭的な養育の提供については通底していると考える。20年前、30年前に比べても、帰省日数を増やしている施設もあるし、何よりも中程度の障害のある子どもの入所率は減っている。
障害児系の施設の場合、医療施設としての機能も併せて有している場合も多く、多数の看護師と少数の指導員に囲まれて、若者は暮らすことになる。そうした子どもたちには、家庭的な環境は提供されるのだろうかとふと思った。

もう1つ。思ったこと。家庭的なるものの押し付けへの懸念だ。施設から家庭へ。流れとしてはそういう流れになっているし、福祉関係者の多くはこの流れに賛成だ。とはいえ、そもそも「家庭的」って何をもって言うのだろうか。そして、そもそも論で恐縮だが、家庭的なケアの下で育つ意味は本当にあるのだろうか。
「家庭的なるもの」へのプラスのイメージが、福祉行政や臨床を知る人たちからも語られている現状は、何か見落としていることがないだろうかと不安に感じる。家族への、家族的なるものへの拒否反応を持つ若者も少なからずいる。家族なのだから、家族のように思ってほしい、お前のことを想って・・・、次々と投げつけられる言葉に戸惑いを感じている若者もいる。欲しいものは、自分にとって唯一無二の存在となってほしいものは、何だろうか。それが家族的なるものの価値観ではない場合もあるわけで・・・。
うまく書けなくて申し訳ないが、家族や家族的なるものがなければ生きていけない社会って、何なんだろう。家族ってそんなに大切なものなんだ。しかし、現実に子どもを棄てる親や家族がいて、事情はあるにせよ暴力をふるう家族がいて。家族って何なんだろう。そういう現実を踏まえずに、家族やそれをベースにしたケアを言われても、全く共感はわかない。

次回は児童虐待がテーマのタイガーマスク基金の勉強会(11月13日開催らしい、詳細はタイガーマスク基金のHPで。)。湧き出した疑問を解きほぐせるかはわからないけど、ぜひお邪魔したい。