障害ってなんだろう

体調がとても悪い。のどが痛いし、けっこうな熱もある。11月は忙しくて休みの時間が取れなかったのが響いたようだ。どうしても書いておきたいことがあって、書いておこうと思う。タイトルのとおり。「障害ってなんだろう」ということ。以下私が感じていることをダラダラ書いていこう。


障害、最近では「障がい」と表記することも多いように思う。私は前者の漢字表記をあえて使っている。理由は2つ。1つは、敢えて文字を変えてみようとも、呼称を変えようとも、未だに実態として「障害」が社会生活全般に根付いてしまっていること。もう1つは、ある特定の人を指すを呼称する言葉として、「ショウガイシャ」が使われ続け、近年に至るまで「障害者」と表記し、それを「障がい者」に変えたところで、「障害」が抱える本質的な問題は、何ら解決はしない。このような理由で、漢字表記を選んでいる。


障害が抱える本質的な問題とは何か。ここ数か月で「新出生前診断」が注目を集めることになった。日本産科婦人科学会主催の公開シンポジウム(11月13日)でも様々論議され、ツイッターSNSなどでも関心の高さがうかがえる。「なぜ障害のある子どもは生まれてくることは望まれないのだろうか」新出生前診断を巡る動きは、この問いを図らずもまた突き付けてきた。言い換えれば、障害のある子どもを産まないという親の選択は正しくないのか、ということでもあろう。


障害のある子どもは、様々な困難を抱えることになる。そして少なくない割合で家族とりわけ、きょうだいにも様々な困難を共有することになる。11月17日の記事で、福島の心中事件をとりあげた。「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」施設へあてた親からの手紙の中のフレーズだ。
過日、保育園で迎えに行ったとき、ママさんたちと新診断のことが話題になった。現実、障害のある子どもを産んでも育てられるかどうか不安だ、健常の子どもよりも、困難があるのは目に見えているなどなど、障害のある大人である私の目の前で、ものすごいトークではあったが、ひとつの実感、思いとして受け取っている。


障害のある子どもも、そもそも子どものはず。ひとたび「障害」が加わると、「生む」「生まない」を左右しかねない、そういう意味で「障害」っていうのは改めて重たい事実なのだなと感じる。
「障害は個性だ」と主張する向きもある。しかし、様々な疾病や障害が個性だとするのは、無理筋だ。自傷行為摂食障害などの障害は、ときに生命をも脅かしかねない。そうなることによって、喜ぶとか歓迎できるとかいうのは、障害のある人本人にとって受け入れられないことだ。単なる個体差は済まされない。それを本人や家族が抱える問題の根っこを単なる言葉の言い換えだけで、言い表してしまうのは乱暴だ。


障害があることをわかっても生み、育てましたという理想的な(あるいは感動的な)ポジティブな話が出される。一方で表に出てくる(メディア等で流される)のは、ごく一部の特殊な環境で、現実はもっと困難があるんだなどという話が反論のような形で出される。この2項対立の図式こそが、「正しい生む選択」、「正しい子育て」そして「障害=困難(迷惑をかける)」といった価値観を形成していったのではないだろうか。
「正しい」とは何を根拠に言うのだろうか。何をもって、困難がある(目に見えている)のに生むのは正しくないと言うのだろうか。「正しい」とする価値判断は、一義的には生む人あるいはその家族の判断だ。だから人によって判断は違ってくるのは当然だ。つまり正しいかどうかの解は多様であり、解を他者に投げつけることは控えるべきなのだろう。だから、障害があるのをわかっていながら生むのは無責任とか困難があるのを本当に理解していないのではないかとは言わない、言えない。そして生まれてくる命が平等に歓迎されるわけではない現状がまだ色濃く残っていることも指摘しなくてはいけない。

最後に一言だけ。せっかくの人生楽しみたい、せっかく生まれてきたのに、生まれてきてごめんなさいなんて本当は言いたくない。